その愛の終わりに


本来なら誰もが寝室で休んでいるはずの時間帯、丑三つ時を半刻ほど過ぎた頃、美都子は屋敷を抜け出した。

先導してくれているのは、山川が買収した女中である。

雪が降りはじめ、美都子は着物の上から紫の厚手のストールをしっかりと巻き付けた。

かじかむ手に白い息を吐きながら足早に裏門に向かえば、一人乗りの人力車が待機していた。


「無理を言ってこんな夜中に来ていただいてしまい申し訳ないわ。これ、料金は昼の二倍に弾んだから」


女中が小銭がぎっしりと詰まった巾着を車夫に握らせたが、車夫は嫌そうな顔であった。


「口止め料が入ってねえな。ってこたぁ、口外しても問題ねえな?」


さらに料金を上げようとする彼に、女中は小さく舌打ちした。

目の前で行われるやり取りに目を丸くしていた美都子は、追加料金を出そうとする女中を止めた。


「それくらいは自分で支払います……この簪を。珊瑚に金細工です。売ればかなりの値になります」


金を工面しなければならなくなった時のために取っておいた装飾品が、早速こんな形で役に立つとは。


「確かに良い品だ。不足はない。で、行き先はどこだい?」


どうやら車夫を満足させるだけの値打ちはあったらしい。
彼はいそいそと簪を懐にしまった。


いってらっしゃいませと頭を垂れる女中に頷き、美都子は言葉少なに車夫に指示した。


「東京駅丸の内南口へ」


朝の五時の始発に乗るつもりは毛頭ない。

どんな反応が帰ってくるかまったく予測がつかないが、美都子は自分がどうしたいのか、隠すことなく山川に伝えると決めていた。

そして万が一彼が自分を受け入れてくれなかったとしても、そのときは一人で始末をつけるつもりであった。

雪で視界が悪くなっているのをものともせず、人力車は夜道をひた走った。

街頭の一つもついていない仄暗い夜道は、普通なら気味悪く感じるところであろう。

しかし美都子は、この暗闇に安らぎを覚えていた。

指先の感覚が無くなるほどの寒さは嫌だが、夜には夜の良さがあるのだ。

ゆっくりと思考の海に沈むには昼より夜のほうが適していると、寝室に引きこもるようになって気がついた。

吹雪きを覚悟したほど強かった雪は弱まり、空は闇色からまた違う色へと変わりつつある。

夜が半ばを過ぎたその頃、レンガ造りの壮麗な建物が視界の遥か遠くに映った。

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