黒猫とさよならの旅

 私の声が聞こえたらしい黒猫は、耳をぴくっと反応させてから、寝そべるようにして私に顔を向ける。タオルを敷いたからか、朝よりもかごの中は居心地がよさそうに見える。


「なれるよ」


 きれいな、黄色の瞳に、黒い瞳孔。それが私をまっすぐに捉えていた。


「……なれないよ」


 あまりにもハッキリ断言するから一瞬〝ホントに?〟なんて聞いてしまうところだった。

 苦笑交じりに答えると、再び「なれるよ」と当然のことのように言う。なんでそんな自信満々に言えるのか、私にはわからない。だって、人間が猫になんてなれるわけはないんだもの。


「だといいね」


 曖昧に返事をすると、猫はなにも言わずに私を見るのをやめた。


「あんたは猫って感じじゃねえよな」


 代わりに壱くんが言う。「そうかも」と言われた意味を深く考えることなく答えると、

「あんたは、飼い犬って感じ。なんか、必死だもんな」

と、言った。

 彼に視線を向ければ、前を向いたままでどんな表情をしているのか私には見えなかった。だけど、きっと今までと同じように、何も考えていないような、平然とした顔をしているんだろうと思う。

 必死な、飼い犬。それって、どういう意味だろう。


——『人に合わせるタイプか』
——『猫の召使いみたい』


 さっき言われた言葉が頭のなかでまた聞こえてくる。

 なんで、この人はこんなことばかり言うんだろう。そう見えるのだとしても、そんな言い方ばかりしなくてもいいじゃない。

 さっきまでの苛立ちも加わって、胸の中がムズムズしてくる。吐き出したい気持ちをぐっと堪えて歯を食いしばった。けれど、いつの間にか、黒猫はまた振り返っていて私と視線がぶつかった。


「どういう、意味?」


 気がついたら、口にしていた。


「え?」と振り返った壱くんは、なんのことなのかさっぱりわからない表情をしていて、やっぱりこの人は深く考えていないし、覚えてもいないんだなと思う。


「……飼い犬って、必死って、なんで?」


 恐る恐るだけれど、思いを口にする。胸がバクバクしていて、なぜか声がかすかに震えるのが自分でわかる。

 遠くから車がやって来る音が聞こえて、壱くんが自転車を止めた。私も同じようにブレーキをかける。すぐに曲がり角から一台の赤い車が出てきて目の前を通りすぎたけれど、私たちはすぐに動き出そうとはしなかった。

 口にしたはいいけれど、一旦話が途切れてしまうと、気まずい。

 なんで聞いてしまったんだろう。さっきまでと同じように耐えればよかったのに。聞いたって彼には深い意味はないだろうし、私の気持ちを理解してくれるかどうかもわからない。

 でも。なぜか、嫌だと思った。

 全てを忘れたいと思ったのと同じように、嫌だ、って思ったんだ。
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