ジー・フール
「今はやってないの?」
「止めたわ」
「そう」
彼女からしたら、僕の返事は適当に聞こえただろう。
でも、僕の頭の中はドヴォルザークの音楽の世界でいっぱいだったのだ。
「よく喋るわ」
「酔っているようだ」
僕はそのまま目を閉じた。
その後の彼女の話し声は全く入ってこなかった。
僕の嫌な癖だろうか。
何かに集中しすぎると、周りが見えなくなる。
そんなことわざが確かあった気がしたが、今は思いだせそうにないから止めた。
あのバーで彼女に敬語は止めてくれる?と言われた。
でも、僕は年上の人に軽々しく話すのは失礼だと思っていた。
そのことを話すと、彼女は笑ってこう言ったのだ。
「バカね。それじゃ私が年上みたいじゃない」
それには僕も笑ってしまった。
そうか、それもそうだと思った。
初対面だからとかじゃない。
やっぱり彼女は大人の女だ。
また違う意味で。
けど僕はひとつだけ条件をつけたのだ。
それは、さん付け。
小さいことかもしれないけど、これでちょっとだけ彼女が優位に立てるのだ。
それくらいはしないと、僕と彼女の関係がおかしくなってしまうからだ。
でも本当は、きっと僕が彼女と親密な関係になりたくない意志が優先していたのだろう。