優しい胸に抱かれて
 揃って[なぽり]を後にする。会社が見えると、遠くに停まっている社用車に乗った平っちがまだ来ない彼を待っていた。


「まだ寒いな?」

「そうだね…」

「…紗希? 紗希が緊張するとそれが相手に伝わる、そうしてまた自分に戻ってくる。しゃきっと、な? 年季の入ったメモ帳に助けられてるだろ? 紗希なら大丈夫だ」 

 そんな言葉を振り落とし、いきなり頬を左手の人差し指で刺してきて「ほっぺたが緊張してるぞ」って、つんつん何度か押しつけてくる。見たくなくても、視界に入る彼の左手の薬指のリングが私の胸を締め付ける。

 紗希なら俺がいなくても大丈夫だ。そう言い聞かされているみたいだった。


「じゃあ、頑張れよ」

 そう言って、走る彼の背中が遠ざかる。
 

 余計なことは考えないようにしようとしているっていうのに。取り留めのない話題を振ったかと思えば、本当に伝えたいことを付け加える。本当に、私を困らせるのが得意な人。

 寒空の下で、ほっぺたが緊張してるって、寒いんだからそれは自然なことだ。まだ指の感覚が残る頬をさする。


『頑張れよ』

 昨晩、夢に現れなかったと思ったら、現実の彼の姿ではっきりとした言葉として目の前に落ちてきた。

 夢に溶け込んだ虚ろなものではなく、それは心の中に確かな言葉として記される。
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