優しい胸に抱かれて
 一冊を胸の前に持ってきて見せつけた。

「これを持ち出して何処行くんですか? これには下請けの情報だって綴ってあります、こんな物持ち出したら…」

 私の言葉を遮って、日下さんは努めて冷たい表情を変えずにいる。


「益々立場が危ういとでも言いたいのか? 聞いてどうするつもりだよ? いいから降りろ」

「理由を聞くまで降りません」

「いいか? こんなファイル、誰だって持ち出せるものじゃねぇのか? そこら辺に置きっぱなしじゃねぇかよ。持ち出し禁止だって言うならちゃんと管理しろ」


 堂々と[持ち出し厳禁]とは書かれてはいるが、鍵の掛かった書棚に納めているわけでも、管理を徹底しているわけでもない。容易く持ち出せるのは否めない。

 わざわざ不利な状況を自分から作る必要はないと思っただけで、持ち出すのを責めているわけではなかったのだが、日下さんは口止めをしたかったわけではなさそうで、続く言葉に面を食らう。


「…他の奴に言いたきゃ言え。今すぐ、島野さんや長島さんに報告しに行きゃいいんじゃねぇか? これを持ち出したことで解雇だって言うなら従ってやる。施工の妨害をした裏切り者として、何もかも俺のせいにして処分すりゃいいじゃねぇかよ。解ったら降りろ」

 これじゃあ、自分がやりましたと肯定しているようなもの。日下さんの言葉を振り払おうと大急ぎで首を振る。


「解りませんし、降りません。誰かに告げ口するつもりじゃなくて、ただ、何か考えがあっての行動なら私にもお手伝いできます」

 答えにはなっていない台詞に納得いくわけがない。


 私のことは滅茶苦茶に貶すし、呆れられることだってあったし、酷い態度もされたことがあったけれど、日頃お世話になっている業者に対してはいつだって誠実だった。それが、下請けだろうとクライアントだろうと分け隔てなく平等だから、絶対的な信頼度があった。


 出向から戻った今も、関わった業者との繋がりを大事にしているのは変わっていない。その証拠に、戻った初日から挨拶回りで朝から出掛けて行ったのは事実だ。ちょっと誤解されやすい人であるのは間違いない。だけど、組んだ手配をキャンセルしたりなんて日下さんは絶対にしない。
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