ビューティフル・ワールド

そして、三つ目。
それが最後のブースだった。

夏の音も、雑踏の騒音も、全て拭い去られたように、一転して、無音。
どこかの湖畔だ。
朝焼けだった。
うっすらと陽が昇りかけた空には、雲はなく、月が浮いている。

乱れの無い水面には、同じ空が反転して映り込んでいた。


完璧な、静寂。


一体、どれだけの…

無音に耳を蝕まれながら、柳瀬の中に、そんな思いが湧き上がった。

一体、どれだけの時間と、エネルギーを費やして、こんな作品を完成させたというのか。

りらの家のアトリエスペースに無造作に積まれたキャンバスや、スケッチブックの中に、
この三つのブースの絵のための習作がいくつも、いくつもあったことを柳瀬は思い出した。

スケッチ、ディティールの拡大、色の重ねのバリエーション。
本当に、数えきれないほど、いくつも。
見た時はわからなかった。
だが今となっては、あれもこれも、この個展のための研究だったのだとわかる。

"多くの人は、価値あるものをつくらなくちゃならない"

りらの声が耳に蘇る。
一体、どれだけの、価値を。
あの人はこれから、作っていくのだろう。


双眸に焼き付く湖をゆっくりとまばたきで遮った柳瀬の睫毛に、透明な雫が纏っていた。

霞がかったオレンジ色と、ラヴェンダー色の静謐なグラデーションに身を浸して、柳瀬は長いあいだ、立ち尽くしていた。


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