ビューティフル・ワールド

居間に入っても、誰もいなかった。

鍵をかけ忘れて出かけたのだろうか。
りらならありえそうな話だった。

それならそれで、顔を見る前に感情を整理する時間ができていい、と柳瀬はアトリエスペースに立った。
用件の切り出し方も、まだ決めてはいなかった。

いくつか立てられたイーゼルには、最後に来た時にはなかったキャンバスが、いずれも似たような色合いに染められていた。

個展の開催中だろうが何だろうが、りらの頭の中にはもう新しい色が生まれているらしい。

まいったな、と柳瀬はまたため息をついた。
誰よりも先に、出来上がった絵を見たい。

これが恋煩いでなくて、なんだというのだろう?

「うわっ、びっくりした。いたのか。」

背後から急に声がして、柳瀬のほうこそびっくりした。

濡れた頭からタオルを被って、りらが目を真ん丸にしてこちらを見ていた。
どうやら台所の脇にあるドアが風呂場へと続いているらしい。

「鍵、かけろよ…」

柳瀬は笑って言ってから、はたとりらの格好に気がついた。

「ああ、悪い…ん?」

りらは、丈の長い薄手のパーカーを一枚着ているだけだった。上がりきっていないファスナーからは白い胸元が今にも見えそうになり、太ももからすんなりと伸びた脚が押しげもなく晒されている。

三十を目前にして、唐突に柳瀬に煩悩との闘いが訪れた。こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
高見の見物をしていたはずの下界に引きずり降ろされた気分だ。
これから、この、自分を男として見てもいない一人の女を、手に入れなければならない。
冗談じゃない、こんな女を?
ちょっと綺麗な顔をしているだけの、その他には才能しかないような、こんな女を?
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