となりの専務さん
「そんなわけでひとり暮らしをしてるよ。
最初はこのアパートに住む予定はなくて、会社の方の沿線のマンションに住もうと思ってたんだけど」

「会社の方の沿線……あの、もしかして……S駅にある有名な高層高級マンション……なんてことは……」

「え、うん。よくわかったね。でも、そんなに高級かな?」

「えぇえ!」

す、少なくとも一般人にはとてもとても住めない高級住宅ですよ‼︎


「俺はさ、あのマンションを下見して帰る途中で目にした、このアパートに心奪われたんだよ」

「……はい?」

「最初は解体工事の途中の建物かと思ったんだけど、普通にアパートでびっくりした。今までとても見たことのないような建物だったから、まじまじ観察してるうちに、なんだか自分も住みたくなって」

今までずっと抑揚のない喋りを続けていた専務のテンションがやや上がり、専務は身をやや乗り出し、頬と口元をやや緩ませながら、楽しそうに言った。


……どんな理由ですか‼︎
ここにしか住むあてのない私っていったい‼︎



専務は極めつけに。


「俺からしたら、このアパートの方が普通はとてもとても住めないところだと思って」

「……」

そりゃ、確かに見るからにガタガタで、隙間風がハンパじゃないし、階段も廃れててサビだらけですが。


「ずっとあのただっ広くてかたっ苦しい実家に住んでたせいかな。
こんな不自由そうな場所でひとりのびのびと暮らしてみたいって思ったっていうのもある」

「ひ、広くて堅苦しいとか、不自由な場所でのびのびとか、不思議な日本語ですが……」


……専務はとんでもないことを言っている。
金銭的にここに住むしかなかった私は『普通じゃない』と遠回しに言われたのも同義で。
とはいえ、専務は相変わらず“澄んだ瞳”をしていて。
無自覚なSはやっかいだ。本人に悪気はなければ、なかなか責めることもできない。

それに。もし専務が悪い人だったら壁の穴のことでいくらでも脅されてると思うし。
専務はそうしないどころか、私の初任給まで修理を待ってくれると言った。少なくとも悪い人じゃないのは確かだ。
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