草食御曹司の恋

「ねえ!さっきの見た?」
「ああ、あれが未来の社長夫人候補?」

給湯室でポットにお湯を注いでいると、どこからともなく聞こえてきた女子社員の声。“未来の社長夫人”というキーワードに動揺してしまう。

声をひそめているようだが、壁が薄いからか、まるで意味がない。給湯室の隣は同じフロアにある営業本部の会議室だ。おそらく会議の後片付けでもしているのだろう。

「そうよ、随分と庶民的な感じよね~」
「そうそう、カジュアルな服装だったしね」

先ほどまで目の前に見ていた、チェックのシャツが瞼の裏に浮かんだ。この二人は先ほどの彼女の話をしているに間違いない。
聞きたくないと思う反面、しっかりと聞き耳を立てている私が居る。

「噂によると、母方の従姉妹らしいわよ?」
「従姉妹同士は結婚出来るものね」
「特に政略結婚する必要もないから、気心知れた仲の女性を選んだって話よ」
「なるほどね~、玉の輿いいな~」
「ま、彼が将来社長にかるかはまだ分からないけどね」
「それでも、いいわよ。御曹司と結婚してみたい!」
「あんたは、彼氏居るでしょ!」

その会話はまだまだ続くようだったが、途中から私の耳には入ってこなかった。


室長が、結婚する。
おそらく相手は、室長室を尋ねてきた女性だろう。

抽出時間をとっくに過ぎたティーポットを前に、私はしばらくの間立ち尽くしていた。


我に返ってから紅茶を淹れなおして、何食わぬ顔で二人にお茶を出した。
仲睦まじい様子で会話をする様子は、先ほどの噂話を裏付けるようで。
珍しく「矢島君も一緒にどう?」と言われて動揺したが、私は取り繕った笑顔で丁重にお断りした。
「給湯器の調子がおかしかったのでもう一度見てきます」と、最もらしい言い訳をして、慌てて給湯室へと逃げ戻った。

逃げてきた先には、今日も順調にお湯を沸かし続ける給湯器しかない。
先ほどの会議室からの会話も、すでに聞こえなくなっていた。

涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死で耐えた。
でも、それも必要ないのかも知れない。
彼は同じ部屋にいたって、私の顔をほとんど見ることはないのだから。
きっと、泣きはらした目で戻ったところで、気付かないだろう。

そう思いながらも、とうとう涙はこぼせなかった。
仕事に私情は持ち込まない。
それが、結婚より仕事を選んだ私に残されたプライドだったのだ。
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