草食御曹司の恋

「こんにちは。熊澤室長はいらっしゃるかしら?」

昼下がり、その女性は室長室の扉を軽やかにノックして、やって来た。
年齢はおそらく私と同じくらいだろうか。チェックシャツとマキシ丈のスカートというカジュアルな私服姿で、明らかにオフィスでは浮いている。それもまるで気にしていないのか、彼女はとても堂々としていた。

「失礼ですが……」
「もしかして、栞里(しおり)か?」

名前を尋ねようとした私を遮って、奥にいた室長が女性に呼びかけた。

私の心臓が大きく跳ねる。
特別に大きい声だった訳じゃない。
ただ、彼が女性をファーストネームで、それも呼び捨てにするのは聞いたことがなかった。

「あら、錬くん、いたの?」
「……どうしたんだ、突然?」
「ん-、用事があったからついでに寄っただけ」
「それは、珍しいな」

二人の間で親しげに交わされる会話を聞きながら、しばらく呆然としたまま立ち尽くす。
来客用のソファセットに腰を下ろした二人に気がつき、ハッとして口を開いた。

「ただ今、お飲み物をお持ちします。コーヒー、紅茶、日本茶のご用意がありますが…」

いかが致しましょう?と続けようとした私の顔を、彼女が目をキラキラさせて見つめているのに気が付いて、思わず言葉に詰まる。

「これが、噂の秘書さん?」

好奇に満ちた眼差しを向けられて、思わず愛想笑いを返す。噂の…とは一体どこの噂なのか気になるものの、不躾に尋ねる訳にもいかない。
困り果てていた私を見計らって、室長が軽くたしなめた。

「こら、栞里。そんなにジロジロと見るな」
「だって、会えて嬉しいんだもの。錬君が居なかったら、本当は秘書さんにだけ会って帰ろうとおもってたの!」
「矢島君、コーヒーを。ああ、栞里は飲めないんだったな。紅茶にしてもらってもいいかい?」

呆れたように溜息をつきながらも、彼は彼女を気遣って、私に普段は好みでないから飲まないという紅茶を淹れるように頼む。
ニコニコとご機嫌で「ありがとう」と笑う彼女を見て、ほんの少しだけ胸が苦しくなった。

この後のスケジュールは一時間ほど空いている。ゆっくりとお茶を飲みながら話でもするつもりなのだろう。

───この親しげな関係の女性と。


モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、「かしこまりました」と頭を下げて給湯室へと向かった。

そして、私の嫌な予感は的中する。
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