草食御曹司の恋

たぶん私の方が先に、この街で“彼女”を見つけたのだと思う。

シンガポールに住み始めて二年が経った頃、たまたま書類を提出するために訪れた大学近くのカフェで、彼女を見かけた。

セミロングの黒髪に、白く透き通る肌。
大きな瞳を嬉しそうに細めながら、手元のスマートフォンを操作していた。
スマートフォンがブルブルと震えるのを、愛おしそうに見つめると、今度はそれを耳に当てて会話を始める。
これまた形の良い唇からは、懐かしい日本語が紡がれていく。

耳に入ったいくつかの単語から、これから知り合いと、このカフェで会うつもりであると分かる。麻のシャツにジーンズというラフな服装から、オフタイムなのだろうと勝手に推測した。

彼女と私は、きちんと面識があるわけではなかった。
彼女にとってみれば、私は単に“兄の元秘書”でしかない。普通なら顔も名前も互いに知らない関係だろう。

それでも、私は彼女を知っていた。
なぜなら、私にとって彼女は“恋い焦がれた人の妹”だったからだ。
たった数回パーティーで遠目に見かけただけの彼女を、私は未練がましくも、しっかりと記憶していたのだ。

そして、私が記憶していたのは彼の妹だけではなかった。
彼女が待つカフェに現れた、細身でスタイルのいい男性。
黒のVネックのTシャツにベージュのチノパンというカジュアルな装いで現れた男は、こちらに来て日に焼けたのか、以前よりも健康的な印象に変わっていた。

それでも、すぐにその男が彼の親友だと気が付いた。
そして、仲睦まじくテーブルを囲む二人が、おそらく男女の関係であることにも。

たまたま異国の地で見かけた二人に、この時は関わるつもりなど毛頭なかった。
二人にとって私は他人も同然なのだ。

私は素早くカフェを後にして、大学へと続く緩やかな坂道を後ろを振り向かずに歩いた。
その後ろ姿を、カフェのテラス席から見送られているとも知らずに。
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