草食御曹司の恋

「こんにちは、矢島美波さん?」

その日、三浦博之は疑問符を付けて私のフルネームを呼んだ。大学の構内で彼にばったりと出会った時には、二人をカフェで見かけてから一ヶ月ほどが経っていた。

クマザワで働いていた頃、彼とは仕事で度々顔を合わせていた。だから、声を掛けられることについてはそこまで不思議ということはないのだけれど、きちんと名前を覚えられていたのは、正直なところ意外だった。

「あ……えーっと、ご無沙汰しています……三浦さん」

言葉に詰まったのは、相手の名前を覚えていなかったからではなく、素知らぬ顔でとぼけてみせようかと、一瞬だけ迷ったためだ。
だけど、それを許さないとばかりに、にっこりと微笑まれて、咄嗟に他人のフリが出来なかった。

「こんなところで、偶然だね」

涼しげな一重の切れ長の瞳で私をがっちりと捕らえたまま、会話を始める。
彼の話によれば、私も通うこの大学で一年前から講師をしているらしい。私も仕事の傍ら最近こちらの大学に通い始めたことを説明して、そのまま10分ほど立ち話をした。

「ごめんね、急に呼び止めて。こっちにいるとなかなか日本人と話す機会がないから、懐かしくてね。よかったら、今度は妻も一緒に食事でもどうかな?」
「ええ、私でよければ」

妻というワードにこの前カフェで仲睦まじく話す二人の姿を思い浮かべる。そうか、二人は恋人ではなく夫婦だったのか。それにしては、よそよそしい感じがしたが、仕事の関係であまり頻繁には会えないのかもしれない。
当たり障りのない挨拶とともにその場で別れを告げれば、その日のうちに連絡がきた。

〈来週の土曜日、妻がオフだから会ってもらえないか?〉

躊躇しつつも了承以外の答えを言い出せなかった私は、もしかするとどこかでまだ“彼”を恋しく思っていたのかもしれない。
そんな自分に内心落ち込みつつ、約束の日までに何とか気持の整理を付けた。
これはそんな“彼”への未練を完全に断ち切るチャンスだと、自分に言い聞かせて、待ち合わせ場所であるカフェに向かう。

二人に彼が今、幸せにしているかどうか、聞いてみよう。家庭を持って、充実した仕事をしているか。
元上司の近況を尋ねるなんて、ごく普通のことだ。何の不思議もない。

そんな風に道中で改めて理論武装した決意は、この後の予想外の展開で打ち崩されることになる。
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