草食御曹司の恋

「初めまして、三浦しおりです」

待ち合わせのイタリアンレストランに現れた女性は、チャーミングに笑ってそう名乗った。
予想外の名前に、思わず彼女の顔を数秒凝視してしまった。
姓が三浦に変わっているのは当然のことなのだが、私の記憶が確かなら彼女の名前は確か梓(あずさ)だったはずだ。

予想外の名前というだけでなく“しおり”という響に思わずドキリとした。あの日、訪ねてきた女性を親しげに「しおり」と呼んだ彼を思い出す。
途端に頭が真っ白になった私は、動揺を隠すように、ただただ彼女の話に耳を傾け、相槌を打った。

国際線の客室乗務員をしている話。
夫が兄の友人だった縁で結婚したこと。
男兄弟しかいないために、少々お転婆に育ったこと。

彼女の口から出てくるエピソードは、彼女が熊澤梓であると結論づけたくなるものばかりだった。
お転婆だといえども、彼女はやはり社長令嬢らしく優雅にコーヒーカップを傾ける。
そのまま、互いに自己紹介しながら二時間ほど会話を楽しみ、私は“三浦しおり”とも連絡先を交換した。
どういう事情があるのかは知らないが、今更「もしかして、梓さんでは?」などとと尋ねる勇気もなければ、その必要もなかった。
堂々と別人の名前を名乗ったのには、何か訳があるのだろう。
話を聞けば、彼女は月に数日程度、仕事の合間に夫の元へ通っている生活らしい。単にこちらに滞在している間の茶飲み友達程度ならば、深く立ち入った話もしないだろうと考えた。

そう割り切ってしまったために、私の決意は無駄に終わった。
彼の妹であることを隠しているかも知れない彼女の前で、彼の近況など聞けるはずもない。

モヤモヤとした私の気持ちとは関係なく、“三浦しおり”と私の仲は会う度に深くなっていった。
最初の頃は時折会って食事やお茶をする関係だったのに、いつしかちょっとした小旅行に出掛ける友達になり、半年も経たぬうちに互いにこちらでの生活や仕事の悩みまで相談するようになった。
人懐っこい性格の彼女は、私が同僚とルームシェアしている部屋(国土の狭いこの国の家賃はとても高いので現地採用の社員達は大体ルームシェアをしている)へといつでもフラリとやって来て、お茶を飲みながらおしゃべりしているうちに、同僚ともすっかり仲良くなった。
そんな風に時折ずかずかと私の生活に入り込んでこられようとも、明るくさっぱりした性格の彼女に嫌悪感を抱くことはなかった。半ば振り回されながら過ごすうちに、すっかり私の方が彼女の虜になってしまっていたのだ。
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