草食御曹司の恋

『美波は二年も、どうしてオフィスばかりに閉じこもっていられたの?!』

ある日、彼女は心底不思議そうに尋ねた。
好奇心の強い彼女は、そう言って私をシンガポールの各地へと連れ出す。存在は知っていても、今まで素通りしていたような場所だ。
シンガポールに来てからの二年間、食事や買い物、ちょっとした用事などで出掛けることはあったものの、私の時間はほとんどオフィスと眠るためだけに帰るアパートメントの往復に費やされていた。

『だって、私は仕事をするためにここへ来たのだし…』
『ダメよ、せっかく健康に生まれたからには人生を楽しまなくちゃ』
『仕事だけでも十分に楽しいけど?』
『美波も、うちの兄と同じこと言うのね』

時折彼女の会話に“彼”の存在が現れる度に、ドキドキしていた。
彼女は、名前と出自以外は本当のことを話しているようだったので、この兄も本物の兄のことだろう。

『仕事は楽しいけれど、それだけではダメ。何でもバランス良く食べた方が健康になれるみたいに、バランス良く生きなきゃ。趣味の時間も必要だし、友達も多い方が素敵ね。もちろん、ちゃんと恋もしないと』
『恋は……努力ではどうにもならないことがあるから……私には向いてないのかも』
『あら?美波はそんな風に力説出来るほど、手痛い失恋でもしたの?』

そんなはずはないでしょう?とばかりに、意地悪な視線を送ってきた彼女に、言い返そうとしたのに、言葉が出てこなかった。

そうなのだ、私はきちんと失恋すらしていない。
彼に気持ちを打ち明けることもないままに、一人この地に逃げてきただけ。
おそらく打ち明けたところでどうなるものでもないだろうが、少なくとも私が彼に振られたという事実は残るのだ。
それを避けてきたがために、今だに私は未練がましく彼のことを思い出したりして、いつまでも忘れられないのだ。

いつか。
この先どこかで彼に会うことがあるのならば。
思い切ってこの気持ちを打ち明けてみようかと思う。
すでに幸せを掴んでいるであろう彼にとっては、迷惑以外の何者でもないかもしれない。

それでも。
この三年で温め続けた気持ちは、伝えなければおそらく一生昇華できそうにない。
懐かしい昔話の一つとして、話せる日がくればいいなと思った。

『とか言って、私も偉そうに言える立場じゃないんだけどね』
『何を言ってるのよ、結婚までしておいて』

一転して珍しく弱気な発言をした彼女に、私はスッキリとした表情で返した。
彼女は曖昧に笑うだけで、ここぞとばかりに惚気たりなんてしなかった。

今思えば、彼女は密かに苦しんでいたのかもしれない。私に全てを打ち明けられないことに。
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