君の隣
湯けむりが立ちこめる、群馬の木造の旅館。

 チェックインを済ませたあと、ふたりは部屋に案内される。

「……ほんとに、静か」

障子越しに見える庭の竹林。

時おり聞こえる鹿威しの音。

 白木の床に響く理名の足音すら、ふたりだけのもののように感じられた。

「見て!

 部屋に露天風呂ある……」

窓を開けた先にある露天風呂を見て、理名が目を丸くする。

「……よく探したね、拓実」

「頑張った。

 君の“ひどい顔”を救うために」

「……誰がひどい顔よ」

むくれる理名を、拓実が後ろからそっと抱きしめた。

「俺は、どんな顔でも好きだけどね」

理名はその腕の中で、ゆるく笑う。

湯上がりの浴衣姿で、ふたりは部屋に戻る。

 テーブルには季節の会席料理が並び、地元の地酒が小さな徳利で運ばれてくる。

「……なんか、夢みたい」

「たまには、夢でいいんじゃない?

 現実からちょっとだけ、抜けて」

「ふふ……先生らしからぬこと、言うじゃない」

「今日は、ただの“理名の夫”だから」

拓実の瞳は、いつになくやわらかい。

 盃を重ねるごとに、理名の頬も心も、ゆっくりと解けていく。

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