君の隣
夜の書斎は静まり返っていた。

 朱音は、机の下にある金庫の前に膝をつく。

 指先が震えていた。

 けれど、鍵を回す手は迷わなかった。

 カチリ、と音を立てて扉が開く。

中から取り出したのは、離婚届と、星哉の万年筆。

 そして、封筒に入っていた星哉からの手紙を、そっと広げた。

 星哉の文字は、いつも通り強く、でもどこか優しかった。


 『朱音へ

 君がこの手紙を読む頃、僕はもう隣にいないかもしれない。

 それでも、君の人生が止まることだけは、どうしても避けたかった。

 僕は、君の心に誰かが住み続けていることに、ずっと気づいていたよ。

 それが、医大生時代の後輩、高沢さんだってことも。

 でもね、それでも僕は君を選んだ。

 君と奈留と、家族になれたことに、何ひとつ悔いはない。

離婚届は、僕の最後の仕事。

婚姻届のコピーは、僕の最後の願い。

 君が、他の誰かともう一度、人生を歩きたいと思ったとき──

 その一歩を、僕が邪魔しないように。

 奈留が僕のわがままに付き合って、証人欄に署名してくれたんだ。

  ――僕たちに似て、優しい子だね。

 朱音。 君は、もっと愛されていい。

 もっと、誰かに頼っていい。
……それが僕じゃなくても、君が笑えるなら、それでいい。

 君の幸せを誰より願って、筆を置きます。

 星哉より』


 
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