彼は藤娘
「あき。あっち行こうか。」
境内図を見ていた彩乃くんが、そう言って立ち上がる。
「ん?どこかまだ見たいとこあった?」

甘酒のカップを捨ててきてから、彩乃くんが私の手を取った。
無言でずんずん歩いて行く彩乃くん。
……よくわからないけれど、引っ張られるままについて行った。

境内の一部なのか、境内を出たのかよくわからないけれど、人気(ひとけ)の全くない貯水池のような池。
彩乃くんは、池の周囲を少し回って、紅葉の下で立ち止まった。
私の手を放して、ニコッと微笑むと一旦目を閉じる。

♪物思ふ立ちまふべくもあらぬ身の 袖うちふりし心まで ♪

彩乃くんが朗々と唄い出す。
これは……聞き覚えがある……あ、そうだ。
ずっとお稽古してはった、こないだの発表会で舞わはった……

「『紅葉狩』?」

私がそう聞くと、彩乃くんは片目を開けた。
「ああ。清水寺では無理やけど、ここならええやろ?」

……夕べ、私が見たがったから……
じ~んと、胸が熱くなる。

彩乃くんは、再び目を閉じて長唄を唄いながらゆっくり舞ってくれた。

♪うつらふ秋の色みえて 此の身を何とゆふまぐれ
 時雨るゝ空を眺めつゝ 浮れ出でたる道の辺の 草葉もともに下紅葉♪

お化粧をしてなくても、着物を着てなくても、髪を切っても、彩乃くんは更科姫だ。

♪夜のまの露や染めぬらん 面白や頃は長月末つかた
 四方の梢もいろいろに 錦彩どる山々は 花の吹雪のそれならで♪

艶やかな姫だ。

♪五色の雪と降る紅葉 分けつゝ行くや益荒夫の
 矢猛心の梓弓 ひくや知るべの駒の足 
 涙に川の流れ絶えせぬ紅葉葉を 渡らば錦中絶えん
 時雨を急ぐ紅葉狩♪
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