早春譜
 「盛り上がっている時に釘を刺すつもりはないのだけど、そろそろ時間が」


「あっ、ごめんね。そうそう、この頁これに写して」

直美は買って来た本に載っているスコアカードの記号早見表を渡された黄色のチラシの裏に書き出した。


縦八行横九行の折り線は詩織の手による物だった。
詩織は最初、このようにして覚えてきたのだった。


早速出来上がったそれで特訓を始めた。


「ねえ直美、本当にそれで良いの?」


「まだ言ってる。決意が変わらない内にやろうよ。『私も男だったら入りたいんだけどね。何しろ此処は野球部強化のために凄腕のコーチを雇ったそうだからね』って言ったでしょ?」


「あれは?」


「だって詩織は小さい頃から野球好きだったでしょう? だから私も何となく興味を覚えていたのよ」

直美の本気さが詩織に伝わり、思わず目頭が熱くなる。
でもその時、外は暗くなっていた。


「あっ、これだけ覚えておいてね」

そう言いながら詩織はせっせとペンを走らせ、それを直美に渡した。


そのメモにはグラブの手入れ方法が示してあった。


「グローブやミットを使用したら、柔らかい布で汚れを落とした後でレザーオイルを薄く塗るの。夏場は中に塗れば臭い防止にもなるの。でも重くなるから、付けすぎないように」


「それは何時やるの?」


「練習後やプレイ終了したらなるべく早く……試合開始前にやると色々と影響出るから」


「解った。後でメモしておいてね。それじゃ、私はこれで」

直美は言うが早いか、鞄に資料を詰めてマンションを後にした。




 「工藤は野球少女だってママが言ってたけど、本当だったな」


「そうよ。でもママはアナウンサーだけどリポーターもしていたから、少年野球団にはパパが付いてくれていたの」

そう言いながら詩織はハッとした。
母親の再婚相手の息子である淳一に父親の話しをしてしまっていたからだった。


「入学式に来ていた人がパパなんだろう?」

淳一は詩織の頷く姿を見ながら確信した。あの時から詩織を意識していたことを……


(やっぱり、俺はあの瞬間に恋に落ちていたんだ)

それは辛い、二人にとって本当に哀しい結末になるかも知れない恋の始まりだった。


淳一はカルフォルニアを訪ねた折りに二人が以前交際していたことを聞いていたのだ。
だから、もしかしたら詩織が本当は妹ではないのかと考えていたのだ。
まだ会ってもいなかった時から……

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