強引なカレの甘い束縛
「由梨香、俺……」
「ホントに市川巽がいる。うわあ、噂は間違いじゃなかったんだ」
変わらず醒めた表情のまま、市川君の低い声が響いた時、近くのテーブル席から女性の声が届いた。
軽やかなその声は、市川君を目当てにここに来たとすぐにわかるもので、彼を見つめながらひそひそと話している。
「あ、あのバイオリニストの市川巽さんですよね」
テーブル席の女性のひとりが立ち上がり、稲生さんの席の傍らに立っている市川君に近づいた。
市川君は彼女たちににっこりと笑った。
「すみません、今はこちらで仕事中ですので」
「でも、市川さんで……」
「たしかにバイオリンを弾いている市川巽ですけど、今は他のお客様にご迷惑ですので、それ以上は何もお答えできません」
優しい声ながらもきっぱりとで話す市川君の様子に、女性は残念そうな顔を見せたけれど、それでもまだ諦められないのか「じゃ、あの、サインだけでも」と食い下がった。
「申し訳ありません。サインをするのはサイン会だけだと決められているので、普段はできないんです。すみませんが、今の私はこちらのいち従業員ですので、おいしいお料理とお酒を楽しんでいただけますか」
「で、でも……」
市川君は、まだ諦められない様子の女性に軽く頭を下げると、話は終わったとでもいうように、体の向きを変えた。
そんな市川君の態度に、女性たちはこれ以上どうしようもないと考えたのか、渋々自分の席についた。
なんだか、市川君って、人のあしらい方がうまいというか、醒めているというか。
私の周りにはいないタイプだな。
そして、市川君は、呆然となりゆきを見守っていた稲生さんに顔を寄せると。
「もちろん、連絡先は変えてないよな」
強い口調で声をかけた。