エリートな彼と極上オフィス
目を合わせたまま、ゆっくりとグラスをテーブルに置くと、両手でそっと広秋の眼鏡を取る。

見えない。

自慢じゃないが広秋は強度の近視となかなかの乱視で、裸眼だと30センチも離れたらもう、どんな大きな文字も読めない。


温かい唇が広秋のそれに重なった。

明らかにこれまでとは違う、先の行為を意識したキス。



「新しい扉、開いちゃうかもねえ」

「何それ、俺あんまり、変なプレイ好きじゃないんだけど」

「そんなんじゃないよ」



くすくすと由美が笑うと、花みたいな日本酒の匂いがふわりと香る。



「得意料理は肉じゃがでぇす、なんてやってる小娘と、急な来客にあり合わせでつまみを作れる女房と、どっちの味に深みがあるかって話よ」

「人妻ってそんなすごいの?」

「どんな行為もね、それが日常になってようやく、熟練の域に達するのよ」



言いながらも、そのキスは無邪気で甘い。

広秋は、なんとなく恐ろしいような気分と期待する気持ちと、純粋な欲望とがまぜこぜになった、複雑な心境を味わった。



「裏表のないストレートな子って私、すぐ飽きちゃうから、こういう感じの子、ほんと好き」

「かなり悪い顔してるよ、今、自分でわかってる?」



わかってるわよ、と笑いながら、広秋のネクタイとワイシャツを慣れた手つきで脱がしていく。

こんなはずじゃなかったんだがなあ、と往生際悪く考えながら、広秋も向こうの身体に手を回し、一枚一枚はぎ取る楽しい作業に入った。





すっきりした顔してんじゃ──



「ねえよ!」

「いってーっ!」

「しかも同じ電車乗ってんじゃねえ!」



全力でぶん殴った後頭部を押さえて、涙目の航がこちらを見た。

どういう偶然か、翌朝、自宅に帰ろうと乗った電車にこいつがいたのだ。

こそこそするのも性に合わないし、向こうから見つけられでもしたらさらに耐えられない。

見つけた以上は声をかけるしかなかった。

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