ビタージャムメモリ
「すみません、ここ、いいですか」
「あ、失礼、どうぞ」
隣の男性が、置いていたコートをよけてくれる。
見るともなしにその人の顔を見て、やられたと思った。
先生も一瞬遅れて私に気づき、はっと動きを止める。
目を合わせたまま、微妙な間が流れた。
…今さら席を変わることもできない。
私は仕方なく、先生の隣に腰を下ろした。
「歩に呼ばれた?」
「はっ、はい」
「珍しいな、歩はあんまり、自分の演奏に人を呼ばないんだけど」
先生は読んでいた文庫本を鞄にしまいながら微笑んだ。
私服、といってもシャツとジャケットなので、スーツとそう変わりはしないけど、会社で見るより雰囲気が柔らかい。
本を読んでいてくれてよかったのに…と先生の律義さを嘆きながら返事を探した。
「ち、チケットが余ったと、今日連絡をくれて」
「今日?」
よく考えたら、こういう形式のイベントで、チケットに余るも何もない気がする。
最初からこういうつもりだったんだろう。
歩くんめ…。
「それは、急な誘いで悪かったね」
「いえ、予定もありませんでしたし」
その時、先生の視線がステージのほうへ向いたので、見れば歩くんたちのカルテットが姿を現したところだった。
四つの椅子にそれぞれ座り、簡単な音合わせをしたと思ったら、客席が静まるのも待たずにさっさと演奏を始めてしまう。
『赤鼻のトナカイ』だ。
気取らない曲目と演出に、私はほっとした。
歩くんたちの服装も、白いシャツと黒いパンツで揃えてはあるものの、硬すぎずフランクだ。
驚いたことに客席の明かりが落とされるわけでもなく、演奏中の入退場が制限されるわけでもなく、実に気さくな演奏会だった。
子供たちは楽しげな曲の時には入ってきて通路で踊り、しっとりした曲に変わると飽きて出ていく。
私は、音もさることながら、改めて歩くんの容姿に見入っていた。
すらりとした手足、器用そうな指、綺麗に伸びた背筋。
弓を動かすたびさらさらと揺れる髪。
左耳の上のほうで光るピアス。