才川夫妻の恋愛事情
最初に五分ほど今月の予算到達度の報告が部長からあって、その後マイクは才川さんに手渡される。スクリーンの隣に設置された席に腰かけると、彼は長机の上のマイクスタンドにマイクを固定しながら話し始める。
「すみません、少しだけお時間いただきます」
マイク越しの彼の声がスピーカーから流れだした瞬間は全身がさざめいた。低く落ち着いた声が鼓膜にじんわりと広がる。
落ち着け、私。
何をいきなり恋愛スイッチが入っちゃったみたいに、浮ついているの。
「三日前に部長から〝次の部会で広告事例話して〟って指令がメールで飛んできて。〝え、何の広告事例ですか?〟ってデスクに訊きに行ったら〝なんでもいいよ任せる。ためになること〟っていう……なかなかな無茶ぶりが飛んできまして」
わっと会場が笑いで沸く。
三十路前の男のおどけた笑顔。
こんなの処世術なんだから、ときめくなんて言語道断。
最前列で私は、真面目に発表を聴いて勉強をするのです。
「そういうわけでどうしようか悩んだんですが、今回は〝他代理店からの扱い奪取に繋がるWEB提案〟という題でお話しさせていただきます。まず――」
「……」
最前列の端っこは才川さんと視線がかち合うことがなくて、私は自分が透明人間になってこちらに気付くことのない彼を一方的に見つめている気分になった。
思うことは最初に挨拶をしたときと同じ。すっとした鼻筋と切れ長の目。感じよく笑う口の端。
Yシャツの上からでもわかる、程よく締まった体。
細長く綺麗な指先。
時折見せる策士の目。
耳によく馴染む声。
才川さんの発表はとっても好評だったにも関わらず、私の頭の中にはさっぱり何も残らなかった。