おいしい時間 しあわせのカタチ
それからしばらくして、店じまいの片付けの途中、佐希子はとつぜん根岸くんに呼び止められるとある注文をされた。
「――よかったのか、これで?」
「よく考えろって言ったのはおまえのほうだろ?」
「そうだけど。まぁだからぶっちゃけ聞いといてなんだけど、ほっとしてるよ。おまえがいきなり”とうちゃん”にならずに済んでな」
「――そうだな」
大上は微笑むとあたためなおしたコーヒーに息を吹きかけた。
大上のアパート。台所からつづきのリビング兼寝室には、芳しいコーヒーの他、それを凌駕して嗅覚を刺激する濃厚なうま味の塊が漂っている。
その発生源はといえば、探すまでもなく、コンロに置かれたままの取っ手つき鍋からである。
白銀の鍋の内側にこびりついた濃い焦げ茶色のルー――ビーフシチューだ。
根岸経由で佐希子さんに頼んで作ってもらったビーフシチュー。
美砂の好物。
別れの席には、とびっきり美味しい料理を振る舞いたかった。
「……けど、大丈夫か?」
急に、根岸がそわそわしながら俺を見上げた。
「なにが」
「相手の反応だよ。明日からも会社で会うんだろ、変にぎくしゃくしないといいけど」
「心配すんなよ。中坊じゃあるまいし、そんなんでごたごたしてたまるか。それにお互い部署もちがうし、もともと食堂でしか会う機会もなかったしな」
「ならいいけど……でも高校のときはあったろ? それで修学旅行まで険悪なムードになっちゃってさ」
「あれは女が悪いんだよ。こっちはできるだけ気まずくならないよう接したのに、向こうがそっけない態度ばっか取るから」
「そこを汲んでやれないから余計にごたついたんだろ。そっとしといたらそれでよかったのに」
「でもせっかくの修学旅行なのに――」
反論しようとして、しかし途中で大上は口をつぐんだ。