専務と心中!
不思議な気持ちで、私は手を引かれて歩いた。

椎木尾さんは、無言ではなかった。
まるで歌でも歌うように、謡曲の一節を口の中で謡っていた。


♪行けば程なく近江路や
 鳰(にほ)の海とはこれかとよ
 鳰の海とはこれかとよ♪
 

私の名前……。
今さら、未練なのだろうか。



会社に着いた。

いつもの廊下で、椎木尾さんは悲痛な顔で私に言った。

「ごめん。どうか幸せに。にほ。ごめん。」

何度も何度も謝って、椎木尾さんは足早に行ってしまった。


……意味わかんない。

いや、まあ、よくよく考えたら、椎木尾さんっていつも自己完結してるというか、私の気持ちは置き去りなこと多かったけどさ。
最後の最後まで……一方通行というか……。


「おはようございます。……大丈夫ですか?」
気遣わしげに背後から声をかけられた。
アルバイトの碧生(あおい)くんだ。

「おはよう。見てた?てか、意味わかった?」
苦笑してそう聞いてみた。

「まあ。別れ話ですよね?ごいっちゃん、泣いてたけど……あれ、ずるいよな。」
碧生くんは肩をすくめた。

ずるい?
どういう意味だろう。
碧生くん、何か……知ってるのだろうか。

「もしかして、碧生くん、知ってる?椎木尾さんの新しい彼女。」
なるべく冷静にそう聞いてみた。

碧生くんは軽く首を傾げた。
「新しい?かどうかは知らない。けど、ごいっちゃん、おばちゃんらにモテモテだから。布居さんは心を傷めなくていいと思うよ?」

おばちゃん……ら?
相手は年上?
しかも、複数?
わけわかんないわ、椎木尾さん。

私はため息をついて、無理やり笑顔を貼り付けた。
「ま、お互い様ってとこじゃないかな。ごめんね。変なとこ見せて。」

「いや。布居さん、悪くないし。……ごいっちゃん、あんな目立つとこで、よく自己陶酔できるよな。良くも悪くも劇場型だよな。」
おどけてそう言った碧生くんに、私も笑顔で同意した。


ロッカールーム前で一旦碧生くんと別れる。
制服に着替えて、編纂室へ。
今日は、D1の学生くんはお休みらしい。

午前中は、碧生くんと別室で資料の撮影をした。
「で?布居さんは?水島に絞るの?」
突然そう聞かれて、ドキッとした。

「……ううん。薫とは、ただの幼なじみに戻る。」

別れる、という言葉はふさわしくないだろう。
つきあってたわけじゃないし。
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