Dear Mr.サイコパス
混沌-1
洋平は歩いた。10月の大阪を余計に肌寒く感じさせる秋雨の中、ただ歩いた。
大学へと続くこの道を洋平は嫌いだ。大学生活を謳歌する学徒達のための趣向を凝らした店が勝ち残るこの通りは、今日も雨にも負けず活気づいてる。それはまるで、洋平の朝の憂鬱を強引に打ち消そうとするかのようだった。入学から1年と半年が経った今もまだその雰囲気に慣れない。今朝もなんとなくうつむきながら歩きたい気分だった。傘で隠れる視界の上半分と、流れ行くアスファルトの下半分の境目を眺めながら、洋平は今期の単位のことを考えていた。

社会学部の学舎に着き、7階の講義室へ向かう。
大半の授業が自由席ではあるものの、最前列や最後列に座った経験は未だに無い。ましてやこの授業を担当する教授は、後ろの方に座る意識の低い学生の学籍番号を密かに控えているという噂もある。かと言って最前列に座るほどの情熱も洋平にはない。
いつものように、前から4列目の机にひとり静かに鞄を下ろした。知り合いが全くいない訳では無いが、敢えて隣で一緒に授業を受けるような友人は彼にはいなかった。
大学のみならず、これまでの学生生活の中でほぼ遅刻の経験がない洋平にとって、着席後の教授を待つ約10分間を潰すためにスマホを弄るか、机に突っ伏し仮眠をとる(もしくはそのふりをする)のがいつものルーティーンであった。特別眠気があった訳では無かったが、今日は無性に惰眠を貪りたい気分であった。

何分ほど経っただろうか。すぐ左側に誰かの気配を感じ、目が覚めた。寝起きで真隣の椅子に人が座っている状況に一瞬ギョッとしたが、授業がすでに始まっていることもあってかそれは誰にも悟られなかったように感じた。
慌てて眼鏡をかけ、筆箱、ルーズリーフを鞄から出し授業に備えた。このカタブツな教授は講義中に机の上にスマートフォンを置いている生徒を嫌うので、それにも配慮し鞄にしまった。同時進行で、それとなく教授の話にも耳を傾ける。心理学分野における強化随伴性について語っていた。同時に、洋平はこの授業に費やす時間の不毛さを改めて実感した。一応黒板に書かれた今日の講義のテーマをノートには写すが、元々疑り深い性格の洋平にとって心理学自体、信憑性の欠く学問だった。
左隣に座った女生徒も同じように感じているのか、机の下でスマホをいじる手が止まる気配はない。

洋平はふとその指に目をやった。白く繊細な指先が軽快に画面の上を滑る。スマホの内容は画面の反射でしっかりとは見えなかったが、その指は、小気味の良いリズムを刻むよう一定の速度で画面を叩き続ける。かと思えば下から上へ、下から上へゆっくり、滑らかに滑る時もある。大方、何かの掲示板でも閲覧しているのだろう。
そして何より、大きく裏切られたのはこの指の持ち主は女性だ、という先程までの思い込みであった。男性にしては若干華奢な体型ではあったが、その中性的な顔立ちは精悍さも匂わせ、確かに男であった。さらさらの金髪に白めの肌、大きな目に薄い唇。
彼の無表情はとても冷たい印象を受けた。しかし同時にその横顔は少なくとも洋平にとっては、人生で見てきたあらゆるものの中で一番美しいものだった。

指の動きが止まり、その少年がこちらを向いた。そこで洋平は我に返った。

「何?」

その声は洋平の想像よりも低く、落ち着いていて力強かった。

バイト先でも指摘される通り、洋平はコミュニケーション能力に長けるわけではない。焦って目を背けながら、声になるかならないかの声量でボソリと

「すみません」

恐らくその少年には届かないであろう声量で呟いた。故意に無愛想を演じている訳では無い。洋平は常常、造作もなく人と目を合わせて話せる人間を羨んでいる。話せない自分に対して情けない気持ちになることもある。その度にどうにかしたい思いにもなる。相手に対して罪悪感もある。治せるものなら治したい、と洋平自身も強く思っていた。

少年は“コミュ障”の洋平にまるでチャンスを与えるかのように優しく、柔らかく微笑みかけた。いや、何の考えもない、条件反射としての笑顔だったのかもしれない。

額にじわりと冷や汗が湧くのがわかった。

「バレたらやっぱり怒られるかな?」

洋平はいつものように、目を伏せる。自分に話しかけていることを気づいていないよう見せかけたかった。

その青年の笑顔が消えるのが、視界の隅で確認できた。

しばしの沈黙の後、彼が再び視線をスマホに落とし、洋平は自分の社交能力の低さを強く後悔した。自分に友達が少ない理由はそこにあるのだ、と再認識しながら洋平も静かに板書を取る作業に戻った。
< 2 / 5 >

この作品をシェア

pagetop