ドルチェ セグレート
「悪い。今のひと悶着で、予定した時間よりかなり押してて。こっちから呼び出したのに、要領悪くてごめん」
 
出鼻を挫かれた気分でそれを聞く。
気性の荒い人なら、『できない約束はするな』とかって怒るかもしれない。
 
だけど、惚れた弱みなのか、ただの弱気な性格なのか。
そんなふうに強く出ることなんかできないし、しようとも思えなかった。
 
ただ、やっぱり自分の存在は仕事(それ)以上になんかなりえないことを痛感する。

「あ……。じゃあ私、近くで待って……」
「……いや。店は花音ちゃんもいるかもしれないし。どうしようか……」
 
勇気を振り絞った言葉に、困ったように言われたことにショックを受けた。
 
今日の約束が流れてしまったら、次があるかどうかなんてわからない。
第一、この自分の中の勢いが、時間が経つにつれて萎んでいくのがわかるから。
 
どうしたら、今日、彼の時間を奪えるの……?
 
泣きそうな思いでそればかりを考える。
彼の喉仏から、緑のタイまで俯くように視線を徐々に下げていた。
しかし、思いもよらない提案に、俯くのを止め、顔を上げる。

「仕事終わったら、家に行ってもいい?」
 
大きく見開いた私の目には、迷いのない表情の神宮司さんが映る。
揺らぐ瞳で彼を見つめ、僅かに顔を縦に振った。

それを受け、彼のスラリとした長い腕が、スッとこちらに伸びてきた。
神宮司さんは、そのしなやかな指の甲で、私の頬をそっと撫ぜる。

ひと足遅れて、私の鼻腔にバニラの香りがふわりと届いた。

「絶対行くから。待ってて」



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