きみと、春が降るこの場所で
詞織が振り払ったわけではなく、俺が突き放したわけでもないのに、握っていた手首はいつの間にか離れていた。
病院の敷地が見えてきて、詞織が立ち止まる。
「ここまででいいよ。ありがとうね」
「いや、送る。ここまで来て帰るのはなんかあれだろ」
「んーん、大丈夫。ちゃんと帰るよ」
詞織は嘘は言わない。俺と別れてから、またそこらを歩き回る事はしないだろう。
わかっているはずだ、自分のタイムリミットを。
自由がない事は可愛そうだと思うけれど、仕方がない事。
詞織は入院患者で、自由に外に出る事は許されていない、多分それは間違いない。
体調はどこも悪くなさそうだけれど、目に見えない部分で異常が現れている事だってある。
何も知らない俺よりも、自分の体の事を理解している詞織の方が、それはわかっているはずだ。
「じゃ…気を付けて」
つい、“またな”と口にしそうになるのを飲み込んで、無難な言葉を選ぶ。
“お大事に”というのは、詞織には似合わない。
踵を返して、来た道を引き返す。
後ろが気になったけれど、振り返りはしない。
「朔!」
二度と出会えなくてもおかしくはないと、心のどこかで思った時、よく響く声が真っ直ぐに背中に届いた。
「またね!また、会おうね!」
俺が躊躇った一言を、詞織はその一言しかなかったように、叫ぶ。
振り向いて、思い切り手を振ると、たいした距離でもないのに詞織も腕全体を使って俺に手を振った。
また、会える。
もうすぐ死んでしまうという事よりも、また会えるという、何の根拠もない叫びの方が、深く胸を突く。
くるりと背中を向けて駆け出した詞織の背中を見送る。
走れるんだよ、なんて、馬鹿だろ。
亀みたいに遅いじゃないか。