きみと、春が降るこの場所で
「お前って犬見た事ねえの?」
「ううん、あるよ?」
「なら何であんなガキみたいな反応するんだよ」
特別犬が好きというわけではないんだろう。さっき塀の上にいた野良猫の前でも立ち止まっていたから。
離すタイミングを忘れた俺に手首を掴まれたまま、立ち止まって考え込む詞織に、またかとため息を零す。
歩きながらでは考えられないのかと突っ込みたくなるけれど、真剣に思案している所に茶々を入れるほど、俺は余裕のない人間じゃない。
「知らないものは、懐かしく思わないでしょ?」
「は?」
「知ってるから、懐かしいんだよ。触れたくなるし、見たくなるの。それだけだよ」
言うだけ言うと、俺の反応なんて気にも留めずに歩き出す詞織の腕を思わず強めに引いた。
「っ…いたいよ」
「あ、悪い…じゃなくて。どういう意味だよ」
ちゃんと説明しろ。適当に誤魔化して逃げられると思うなよ。
「だから…わたしは犬を知ってるよ。猫も知ってる。だけど、家にいる時間より病院にいる時間が増えて、色んな物が遠くなった。それが寂しい」
「寂しい?」
「寂しいよ。懐かしいって思う事も、今日の事を思い出して悲しくなるのも、全部寂しい」
さっきまでの笑顔が消えて、眉を下げた詞織に、俺が悪い事をしてしまったような気になってくる。
言いたくない事があるんだろう。だから、言わないんだ。
無理に聞こうとした俺も悪いけれど、ヘタに答える詞織も少しは悪い。
それでも、寂しいと言った詞織を責める事は出来なかった。