恋のお試し期間
彼とのこと。


佐伯慶吾。

里真が子供の頃から知ってる年上の優しくて頼れる幼馴染のお兄ちゃん。
でもそれは里真にだけじゃなくて公園なんかで一緒に遊ぶ他の子皆の。
あの頃からかっこ良くて皆に慕われていたヒーロー。
成長した今もまるでアイドルのような別次元の人のように輝いていて。

お試しとはいえ、とても私と付き合ってる人には思えない。

盛大な冗談なら早くネタバレして笑い飛ばして欲しいのに。


引き返せなくなるほど本気になる前に



「や…ほんと…もう…やだ…んっ…ふっ」

必死にジタバタして大きな体を引き離そうと足掻くが全くびくともしない。
この人は怪力の持ち主かと思うくらい。そして息が苦しい。
最初は手の甲から始まって頭やおでこ頬、そして唇。

「…君がいけないんだよ。俺をまた佐伯って呼ぶから」

時折唇が離れて息継ぎと抗議の言葉を発するが相手は無視して攻めて来る。

「だ…だからって……窒息で…殺す気ですか」

暫くしてやっと唇だけ解放された里真はハアハアと荒い息をする。
まだ完全に逃げられた訳ではなく彼の胸の中。抱きしめられたまま。
その耳元ではちょっとご機嫌斜めな佐伯の怖い台詞。

「さあ。ちゃんと呼んでみて」
「…無視ですか」
「里真」
「慶吾さん」
「はい。よくできました」

嬉しそうに笑うと今度は優しいキスをした。
お店はイベントのためかまだ開店前。里真は仕事帰りにふらりと立ち寄った。
お試し期間も2週間ほど経過しているが未だに継続中。まだ本気の交際宣言はない。


けれど、あれから里真が店に顔を出さない日が続いたら電話がくるようになった。

怒ったり強制したりはせず優しく調子が悪いのかと気遣ってくれて、
顔を見せて欲しいとお願いするように。そんな風に言われると弱くて。
もう来るしかない。ということで里真は立派な常連様。

「今日は団体さんの貸切予約ですよね。バイトさんとがんばってください」
「そうなんだ。…ごめん」
「いいえ。慶吾さんのお店が繁盛するのはいいことです。それじゃそろそろ行きますね」
「後でまた電話するから」
「はい。それじゃ」

最後にもう1度キスをして里真はお店を出た。
薄暗くはなっているがまだ日は完全におちては無い。
だから弟を呼ばれることも無く1人で帰る事が出来る。

お付き合いをはじめてもその辺はかわりなく優しく甘い人。
けど、爽やかに見えて思いの外情熱的というか積極的というか。
キスを含むスキンシップが多くて茹だってしまいそう。



『やっと彼氏出来たんだ。よかったね』
「まあ、まだ本物じゃないんだけど」

部屋で寛いでいると友人から電話があって、彼もまだ忙しいだろうと電話に出る。
佐伯との事はまだ半信半疑な所もあって周囲には黙っていようと思っているのだが、
友人は店の事を知らない。だからいいかなと思い話してみる。
彼氏が出来たかもしれない。誰かに少しくらいは知って欲しい願望。

「え?どういう意味?…漫画とかいうオチはやめてね?そういう歳じゃないでしょ」
「人間だよ。でも、なんての?まだ信じらんないから。お試し中」
「あんたその顔で」
「それ弟にも言われたから」

お試しなんて聞くとどうも偉そう。自分でも思う。
明らかに試されるのは里真の方なのに。

『そんで。どういう人?やっぱ普通?今度はもうちょいいい会社の人?』
「自営業…かな。顔はね、いいよ。…結構、いい」
『農家は長男はやめとけ』
「なんでそうなるの。普通に…その、お店だよ。お店」
『へえ。やるじゃん』
「でも、わかんないからね。何があるか」

相手から一方的にお試しを切られてさよならなんて大いにありうる。
そうなったらもう今までみたいに近所の優しいお兄さんではなくなる。
帰り道も少し遠回りしないといけないし。
誰かと結婚なんてしたらそれこそ。ネガティブになる一方。

『そこそこ金あってそこそこ顔いい男なんて絶対遊んでるからね』
「だよね。だよね。やっぱりそうだよね」
『うん。男はね、金と時間があれば色んな女と遊ぶ生き物なのよ』
「…やっぱ慶吾さんもそうかなあ」
『ま、お試しなんだしこっちも遊んでやるつもりでいけばいいんじゃない。
あんたにしては上玉をゲットしたみたいだし。つかの間の幸せでもいいじゃん』
「別れる前提で言わないでよ。…これでも…結構…好きなんだなって…思ってるのに」

今までちゃんと長く続くような恋愛してこなかったから信頼が無いのは分かる。
相手もあからさまにモテるルックスの相手ときたら。女の人と一緒の姿を見たことはないけれど。
でもやっぱり経験は豊富そう。自分と本当に合うのだろうか。里真はちょっと気落ちする。

やっと少し自信をもてたのに。

彼が本当に私を好きでいてくれるのかもしれないと。

でも人に言われるとその自信もグラグラと揺れる。やっぱりドッキリだろうか。
グチグチと喋っている間に時間は過ぎてもう夜遅く。
明日まだ会社なのに慌てて電話を切って寝る準備。


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