恋のお試し期間



「ありがとうございます」
「お前、…最近うちによく来るけど。もしかして異動するんじゃないのか」
「え?異動って…まさか営業に?またそんな冗談を」
「話はまだされてないみたいだな。でも怪しくないか?前もそうだったが」
「やめてくださいよ。人事だって分かってるはずです。私には向いてないって」
「俺も上司に聞かれてもお前は推薦しない。けど、どうだろうな」

おもいっきり貶されているがそこはこの際どうでもいい、
ただ不安を煽る言い方はやめてほしい。無いって言って。移動なんかしたくない。
定時には帰れないし忙しいし皆ピリピリしているし。仲良しもいない。

そんなの怖い。怖すぎる。

「ここに知り合い居ないし。無理です。出来る気が全然しない…」
「まあなんとかなるだろ。もし来ても俺が紹介してやるからさ。女がいない訳じゃないし」
「気のせいであることを心から祈ってます」
「そうだな。毎回お前の愚痴を聞かされたらたまったもんじゃない」
「私だって矢田さんにこき使われるのは嫌ですよ」
「だったらさっさと終わらして帰るぞ。というか、ソコ間違ってる」
「矢田さんの字が汚いから打ち間違えたんです」
「人の所為にするな。この馬鹿」
「……馬鹿って言った」
「そこも形式が違う。何でそんな簡単なことが出来ないんだ?
何年やってんだお前。ぼんやりし過ぎなんだよ」
「……すいません」

まるで新人研修を受けなおしているかのような鬼の指摘。スパルタ具合。
矢田に怒られながらもすべてを終えたのは10時を回るころ。
やっと帰ることが許されて、会社からも解放されたらもうすぐに眠気…

ではなく空腹が里真を襲った。

家まで待てそうにない。途中で食べていくかそれともコンビニで買うか。

「おい。飯どうする」

恋人との予定はないようで何気なしに一緒に歩いている矢田。

「そこのコンビニでおにぎりでも買おうかと」
「お前らしいけどほんと色気がないな」
「傷つくからやめてください」
「どうせなら彼氏の店で食ってけばいいんじゃないのか」
「…慶吾さんのお店は夜はバーになってるので。おつまみしかないんです」
「お前になら何か出してくれるだろ」

ちょっと馬鹿にしたような笑い交じりの言い方。
彼は何処か佐伯の事を嫌っている。
何があったのかは誰も教えてくれないけれど。里真はその態度にムっとして。

「何でそんな突っかかる言い方するんですか」
「今の話しの何処が突っかかってたよ。お前こそ穿って見すぎだ」
「とにかく。私はコンビニでおにぎりを買うんです」
「さっさと買って来いよ」
「何でそんな事矢田さんに言われなきゃいけないんですか」

そこまでとやかく言われる覚えは無い。里真も不機嫌そうに返事する。

「夜道女1人歩かしたら危ないだろうが。ほらさっさと行け」
「……、…はい」

それはつまり心配して待ってくれるという事だろうか。

意外だ。意地悪な鬼なのに優しい。

里真は足早にコンビニへ向かうとおにぎりとお茶を買ってきた。
今度はちゃんと2個。大きいほうを待っていた矢田に手渡す。

「シャケとこんぶと梅が全部入った爆弾おにぎりってお前」
「美味しそうじゃないですか」

大人の男の握りこぶし大のおにぎりを渡されてなんとも言えない表情をする矢田。
里真は明太マヨにした。本当は2個くらい食べたかったが最近何かと食べているので我慢。
家でちゃんと食べるのも考えている。

「じゃ、遠慮なく貰うわ」
「どうぞ」
「食いづらい」

包装をとって齧りつく2人。里真はともかく矢田の巨大握りは食べ難い。

必死にかじりつく様が何だか面白くて笑ってしまった。


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