ブラックバカラをあなたへ
屋上のドアを開けると、横で膝を抱えて座っている彼がいた。




ドアを閉め、彼の隣に腰掛ける。




来たはいいものの、どう声を掛けたらいいか分からず、黙っていると、




『…どうして来たんだ』




顔を膝に隠したまま、彼が聞く。




『私が、廻さんの元へ行きたかったからです』




私は正直にそう言う。




『笑いに来たのか…女に触られそうになっただけで、怯える俺を…惨めだろ…』




そう言った彼の手は、固く拳を握っていて。




少し、震えているように見えた。




『誰しも、恐いものはあります。




私、こう見えて男性の方が少し恐いんです。力で物事を進めようとする傲慢さを、私は小さい頃から見てきました。男性の方全てがそうでないことは分かっていますが、この体、頭に刷り込まれたことは、簡単には拭えません。




廻さんも、そうなのではありませんか?』




そう尋ねると、彼は少しだけ頭を上げた。




『…昔、俺にはストーカーがいた…』




そうポツリと呟く。




今までに、彼自信のことを話すことはなかった。




私は静かに耳を傾ける。




『どこにいても感じる視線に俺は吐き気がした。一度だけ父さんに相談したが、気のせいだと取り合ってもらえなかった。子供の俺じゃどうすることもできなくて、俺は、誘拐された…』




誘拐。




その単語を聞いて、私は恐ろしくなった。




まだ小さかった彼に、一生ものの傷を負わせたのだ。




『…俺はその女に執拗なほどに見られた。気持ち悪いなんて言葉じゃ生ぬるい。おぞましいほどの視線。女は俺の隅から隅までを、撫で回すように触った。幸い、警察がすぐに来てくれて、俺は助かった。




だが、女が捕まった時の妖艶な微笑み、触れられた感触、あの視線が、記憶がずっと消えてくれない…』




疲れたような顔で彼はそう言う。




どれほどの恐怖を彼は味わったのだろう。




想像するだけで、胃が気持ち悪くなった。




『…俺に失望したか?女に誘拐される、情けないやつって…』




自嘲気味に笑う彼を見て、私は胸が苦しくなる。




『いいえ…そんなこと、決して思いません。寧ろ、私は廻さんを尊敬いたします。それほどの恐怖と共に生きていく強いあなたを、私は誇らしく思います』




そう言った私に、彼は驚いたような表情で振り向いた。




私は彼を力強く見る。




『廻さん、私はあなたが好きです。婚約者としてではなく、一人の女性として、私はあなたをお慕いしております。




きっと、私のことも恐いと思っていたはずです。けれど、あなたは一緒にいて下さいました。私は、あなたが誰よりも心優しい方なのだと知っています。




廻さん、私と婚約して下さってありがとう』




そう言って、私は微笑んだ。
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