平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「いえ、大丈夫です。座っててください」

湿った手の子どもみたいに高い体温に促されるように、素直に上げかけた腰を戻す。
と、おもむろに彼は膝を揃えて正座し頭を下げた。

「この前はすみません。ありがとうございました」
「え? なに、いきなり」

まあ、そりゃあ、いけ好かない言動も多々あったけど、こんなにあらたまって謝られるほどじゃないし、ましてやお礼を言われるようなことはした記憶がありませんけど。

「真田様の奥さん、とっても参考になったって」
「……ああ、キッチンの」

カタログを頼まれていた真田様はまだ若い二十代のご夫婦だ。住宅ローンが低金利のいまのうちに、旦那様の実家の空いている土地に新居を計画中。
新婚の奥様にも調理をするイメージが湧き易いよう、いくつかお薦めをピックアップして、付箋を付けて送ったんだっけ。それには、手入れのしやすさとか動線のメリット、デメリットなんかも書き添えていた。

「もしかして、余計なことしちゃったかな?」

篠原くんと脩人くんという、料理なんてしそうもない若い男子が担当だからと気を利かせたつもりだったけど。

「いえ。オレじゃ、まったく気がつかない点ばかりだったんで。おかげで、奥さんの希望に適うものをみつけてもらえました」
「そう。ならよかった」

上手く話を進められて嬉しい、でもなんとなく悔しいという複雑な笑みを浮かべて微笑んだ彼の顔は、入社の挨拶の時よりちょっとだけ大人になっていた。

「伊達にキミより4年多く働いているわけじゃないから。オバさんの知恵袋をなめないでよ」
「あっ! えぇっと、それは――」

眼を泳がせ始めた脩人くんの前にグラスを突きだす。

「ほら! 有り難く思ってるなら、おかわりちょうだい」

喉を通るビールの苦味が、なんだか甘く変わっていく。

うん。今日のお酒は美味しいぞ! 

調子に乗ったわたしはついつい呑みすぎた。
二次会に行こうという吉井さんたちからの誘いを断って家路についた。
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