平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
 ◇ ◇ ◇

春と夏の間の季節は夜道でも心地好い。
カタカタと箸の刻むリズムに合わせて歩いていれば、少しずつ酔いも覚めてきた。

マンションの前に着くと、閉店時間を過ぎた橘亭の看板の電気は消えていたけれど、ドアのガラスから細い光が漏れていた。

お弁当箱、返さなくっちゃ。

鍵がかかっていないことを祈りながら静かに扉を開くと、美味しい匂いの空気が外へと流れ出す。もったいなくて慌てて閉めた。

「あれ? 礼ちゃん?」

小さく鳴ったドアベルに気づいた晃さんが厨房から顔を出した。

「こんな時間にどうした? 飲み会は?」
「もう終わりましたよ。これ、返しに寄りました」

カラカラと袋を振ってみせると、「明日でいいのに」と苦笑しながら受け取ってくれた。

「今日もごちそうさまでした。イカ大根、さっそく作ってくれたんですね。美味しかったです」
「ちょうどいいイカが安かったからね」

晃さんは、お弁当箱を袋から取り出しながらくすりと小さく笑う。

「これ、いつもありがとう」

ひらひらとさせたのは、すでに日課になっているお礼の一言メモ。さすがに目の前で読まれると、ちょっと恥ずかしい。

「希さんは?」

はぐらかすように店内に視線を巡らしても、彼女の姿は見当たらない。

「とっくに帰らせたよ。今日は少し暇だったし」

それもそうか。妊婦さんに夜更かしはよろしくないだろう。

「晃さんはまた仕込みですか? 良い匂いがしてる」
「うん。でも、もう終わったよ。そうだ、ちょっと時間もらえる?」

鼻をクンクンとしているわたしの前に平皿が置かれた。

「明日の日替わりにしようと思うんだけど。味見してみて」
「サバの味噌煮、ですか?」
「一年中ある魚だけど、本当は秋サバのほうが脂がのっていて美味しいんだよね」

珍しく自信なさげに言いながら、また厨房に入っていく晃さん。わたしは「いただきます」と手を合わせて、まだ湯気の上がる身を一口摘まむ。

「んっ! 十分美味しいですよ。でも、ちょっと濃いかな? ご飯かお酒が欲しくなります」

この味のどこが心配なんだろう。わたしなんて、同じ料理を作っても一度も同じ味にならないのに。
じっとお皿の上のサバの切り身とにらめっこしていると、視界に小振りのグラスが割り込んだ。

< 24 / 80 >

この作品をシェア

pagetop