平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
この縛めから逃れなければ。そう、頭の中は警告音を鳴らしているのに、身体がいうことを利いてくれない。

「なんで希? あいつはいま、関係ないでしょう?」

晃さんは心底不思議だ、といった様子で眉根を寄せた。なんで? どうしてっ!?

「関係ないって、そんなっ!」

悲鳴じみたわたしの声に、ドアベルの音が重なる。晃さんの肩越しに見える目を瞠る希さんの顔に、わたしは全身から血の気が引いていくのを感じていた。

「希さんっ! 違うんです、これは――!!」

渾身の力で晃さんを押しのける。その勢いで長身を反転させた晃さんが、怪訝な声で彼女の名前を呼んだ。

「希?」

その瞬間に、希さんが大きなお腹を押さえて膝からくずおれる。わたしたちは慌てて傍に駆け寄った。

「どうしたんだっ!」
「だっ、大丈夫ですか?」

額に脂汗を浮かべる希さんを、ふたりで両脇から抱えて椅子に座らせる。

「ふぅ。ごめんね、大丈夫。……来たみたいなの、陣痛」

深呼吸で痛みの波を除けながら、薄く笑った。

「でも、予定日はまだ先じゃないですか」
「これくらいになると、もう、いつ産まれてもおかしくない時期なのよ」

非常事態に混乱するわたしに対して、希さんは至って冷静だ。

「病院とタクシーには電話してあるから。晃。悪いけど、部屋にある入院セットが入ったバッグ持ってきてもらえる? さすがに自分では無理だった」
「わかった」

コックコートを脱ぎ捨てて、慌てた様子で店を出ていった。その間にも希さんは荒い呼吸を繰り返し、ときおり呻き声を上げている。
わたしはただただ、背中をさするくらいしかできなくて。

「外に出て、タクシー待ってます」

さっきのシーンを目撃された気まずさも手伝い、辛そうな希さんから逃げを打つ。

「ダメっ! ここにいて」

短く切り揃えられた爪が肌に食い込むほど、思い切りよく手首を掴まれた。華奢な彼女のどこにそんな力があったのかと面食らう。

< 50 / 80 >

この作品をシェア

pagetop