29歳、処女。
いたたまれない。


エレベーターのドアが開いても、私の足は動かなかった。


一瞬でも期待してしまっただけに、自分の勘違いを知らされるのが怖かった。



喜多嶋さんが促すように手を引いてくる。


私は「あの、」と口を開いた。



「私、やっぱり帰………」


「雛子。黙ってついて来い」



有無を言わさぬ口調で命じられて、私の足は勝手に一歩踏み出した。


私はいつだって、喜多嶋さんには逆らえない。



私を待ち受ける喜多嶋さんの瞳は、深く静かで、でも奥のほうに炎が見える気がした。



玄関のドアを開けて、喜多嶋さんは私の肩に手を置き、中に押し込むようにした。


私も何も言わずに室内に入る。



ドアが閉じる。


一瞬、闇がおとずれた。


すぐに明かりが点いてほっとする。



でも、狭い空間で二人きりだと意識すると、動悸はさらに早くなった。



「………レッスン、ですよね」



気が付いたらそんなことを口走っていた。


今から訪れるものが何なのか、私にとっては未知すぎて、自分の理解できるものに置き換えたかったのだと思う。


だから、『これはレッスンの続き』だと思いたかった。言ってほしかった。



喜多嶋さんは黙って私を見つめ、「そうだよ」とつぶやいた。



「分かったから、早く靴ぬいで上がれ」


「………はい」




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