さよならは言わない
森田さんの遠ざかる足音ともう一つの反対の方へ歩く足音が聞こえてきた。
誰だろうと足音が聞こえる方を見ると男性の後ろ姿が見えた。
椅子から立ち上がり廊下へと出ると、遠ざかる後ろ姿が見えたがその後ろ姿に見覚えがあった。
以前は、あの姿を見るたびに嬉しくなりあの背中に抱きついたものだ。そんな私を「可愛い」と言ってくれたあの人はもういない。
このフロアへも誰かに用があってきたに違いない。
捨てた女の仕事ぶりをわざわざ見にここまで来るはずがないのだから。
もう、忘れたと思ったはずなのに何故あの人の後ろ姿を私は見つめているの?
バカバカしいと思いながら自分のデスクに戻った。
営業課の近くにあるエレベーターのボタンを押した尊は、自分のデスクに戻る私の後ろ姿を見ていた。
誰もいないフロアに私達二人だけの足音が響いていた。
フロアに響くパンプスのヒールの音に耳を澄ましていた尊は、その足音が止まるのを聞き届けたかのようにエレベーターの中へと入っていった。
自分のデスクに戻ると、廊下で響く男物の靴の音がエレベーターの中へ消えていくのが分かった。
尊がこのフロアからいなくなったと分かっただけで体の力が抜けて椅子に座り込んでしまった。
あんなに何年もかけて忘れたはずなのに、もう、尊に会っても平気だと思い込んでいたのに、尊の足音を聞いただけで胸が締め付けられそうになるなんて。
自分がこんなにも愚かな女だとは思わなかった。
派遣会社の担当の田中さんと一緒に挨拶に来た時にあんな酷いセリフを言われたのは、きっと、私が尊の姿を見て驚き以上に熱い眼差しで尊を見つめたのに違いない。
だから、尊は警戒し私を近づけさせない為にあんな冷たい態度を取ったんだ。
こんな調子で3か月もの間、ここで仕事が出来るのかしら?
もしかしたら、契約期間途中で断ることになるかもしれない。
いいえ、尊の方から契約の破棄を言い渡されるのかも。
その為に私を監視しているのかも知れないから。