ナイショの恋人は副社長!?
「ふっ、副社長!」
 
十五階建てのビルの下で、優子の声が響き渡る。
敦志は、ぴたりと足を止めたのと同時に振り返り、驚いた目を向けた。
 
いざ、敦志が自分と対面すると、緊張のあまり、言葉が出てこない。
焦れば焦るほど、頭の中は混乱する。

優子は、壊れたおもちゃのように、ぎこちない動きになっていた。

(落ち着け。用件だけを、正確に)
 
敦志と視線を交わらせているだけで、冷静さを失ってしまう。
だから、優子は一度目を逸らすように俯いて、浅く息を吐いた。

「あの、上着を……。その、お返しするのが遅くなって、申し訳ありません」
 
紙袋を両手で差し出しながら、深く頭を下げる。
その後に続ける言葉は用意してなくて、優子は頭を上げずにそのままいた。

「ああ。もしかして、このために、わざわざ外で待っていてくれたんですか? 副社長室に来て下さればよかったのに」
「えっ?」
「十五階でも、社員なら誰でも入ることは出来ますよ。ご存知ではなかったですか?」
 
敦志の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。大きく見開いた優子の目には、微笑を浮かべた敦志が映った。

「……私が社員だと、知ってらしたんですか?」
 
大きな会社だ。社員数は膨大だろう。
それなのに、ついこの間入社したばかりの自分を知ってくれているだなんて、と驚くのも無理はない。

「本来ならば、私の立場上、全社員を把握しなければならないんでしょうけどね」
 
優子の質問に軽く目を伏せ、穏やかな口調で答える。
その回答は、ハッキリとしないもので、優子は頭を捻った。

そんな困惑の目を受け、敦志は優しく目を細める。

「けれど、あなたは我が社の顔です。知らないはずがないでしょう? 鬼崎さん」
 
敦志は形のいい唇で、確かに優子の名前を口にした。
そして、スッと手を伸ばし、差し出されていた紙袋を受け取る。
その際、ほんの微かに、優子の手に敦志が触れた。
 
それは、指先が掠る程度。
それにも関わらず、優子は、その手が痺れるような錯覚を起こし、身体中まで熱くなる。
 
瞬きをすることも忘れ、涼風に髪をふわり靡かせる敦志を見上げる。
メガネの奥の瞳が、柔らかく優子を映し出した。

「笑顔がいつも素敵ですよね。ウチの人事は、見る目があるようです」


< 10 / 140 >

この作品をシェア

pagetop