リナリア
* * *

 麻倉のスタジオに着いて、思わずきょろきょろと見回したが名桜はいなかった。もし泣き腫らした後のような表情だったら、少し胸が軋んだかもしれない。そういう意味では顔を合わせない方がよかったのかもしれないが、心は正直でどんな形であれ顔が見れたら嬉しかった。その気持ちはちゃんとある。

「伊月くん。」
「あ、麻倉さん。今日はよろしくお願いします。」
「ごめんね、撮影は名桜が担当する予定だったんだけど、ちょっと代打で僕です今日は。」
「はい。よろしくお願いします。」

 きちんと冷静ないつも通りの表情を出せていたのか、少し自信がなかった。目の前の麻倉は困ったような表情を浮かべたまま、口を開いた。

「名桜と何か、あった?」
「え…?」
「あ、話したくないことならもちろん、無理には聞かないんだけどね。今日の午前は伊月くんの撮影だけなんだ。開始が早いから後ろは時間が余ってるし。…それに珍しく、あの子が言い淀んだから。」
「…困っていましたか、名桜は。」

 名桜が麻倉に何をどこまで話したのかはわからない。だが、麻倉が心配する程度には名桜には戸惑いがあったのだ。その事実は知春の胸を少なからずしめつけた。

「困っていたというよりは…嘘がつけない子だと改めて思ったくらいかな。」
「…それは僕が聞いても大丈夫なことですか?」
「うん、もちろん。じゃあ先に少し話してすっきりさせようか。飲み物を用意するね。伊月くんはゆっくりしていて。」
「…ありがとう、ございます。」

 知春はかつて名桜が牛丼を食べて眠ってしまった時の椅子に座り、テーブルに肘をついた。深くため息が零れる。昨日言ったことに嘘は一つもないし、言ったことを後悔はしていないと思っていた。しかし、名桜が現れないということはこういうことなのだ。居るはずの場所にいない、どこかぽっかりと穴が開いたような空虚さがある。

「ちょっと熱かったかもしれないから、少し冷ましてから飲んでね。」
「ありがとうございます。」
「いえいえ。」

 麻倉はにっこりと微笑んで、知春の向かいに座った。そして穏やかな表情のまま、麻倉が話し出した。

「本当は今日の撮影、あの子だったんだよ、担当は。伊月くんがこれから任される、雑誌のコラムに使われる写真で枚数も多くないし、こじんまりとした撮影でやれるからね。最初は僕がやることでスケジュールを組んでいたんだけど、それに複雑そうな顔をしていたから代わるかいって声を掛けて、名桜がやるって言ってた。それが昨日の夜、これまた変な顔で僕に話しかけてきたんだ。」

 今日の自分がいつにも増して静かで暗いことに、おそらく麻倉は気付いている。だからあえて、軽く話してくれている。そういう些細な気遣いが名桜に重なって、また胸がじくじくと痛んだ。
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