リナリア
 そもそも自分にこんな感情があったことも、知らなかった。他人のことならば見ていれば感情がわかるけれども、自分のことはよくわからない。カメラと友達と家族。それだけがずっと大切で、それは変わらないと思っていた。だが、そんなことはなかった。いつの間にか育っていた気持ち。一瞬で折れてしまう、気持ち。そんなものが、自分にもあった。それを知れたことは嬉しいけれど、それがこんなに痛みを伴うものだと知ってれば、それなりに準備をしてから挑みたかった。

 頭が痛い。瞬きをするたびに水が流れていくせいだ。ずっとここにいるわけにもいかない。そう思って、空を見るのをやめた瞬間だった。

「…な…お?」
「…知春…さん?」

 制服じゃない、ということは明らかに仕事帰りだった。目の前の知春は、真っ直ぐに名桜のもとへやってきた。

「名桜じゃん、本当に。何してんの?」
「…何も。」
「意味わかんないし。」

 いつもならばその真っ直ぐな瞳は嫌いではないのに、今日は苦手だ。見透かされてしまいそうな気がするから。

「…とりあえず風邪ひくから。うち、おいで。」
「え?」
「そのままじゃ帰れないでしょ。」

 ぐいっと引かれた腕。振りほどく気にもなれなかった。そんな力は今の名桜に残されていない。

「人に見られたらまずいです…よ…。」
「そうかもしれないけど、こんな雨の中、名桜を残しておく方がヘンでしょ。行くよ。」

 知春の手は、温かかった。今の名桜の身体で唯一、腕だけが温かくなった。
< 50 / 130 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop