明日へ馳せる思い出のカケラ
 まさに獅子奮迅と言ったところか。アフリカの方から来た留学生なんだろうけど、その走る早さは他を圧倒するものだったんだ。
 たぶんその一コマを切り抜いたとすれば、それを見たほとんどの人がスプリント競技に見間違うだろう。それほどまでに漆黒のスピードスターはグングンと他の日本人選手を引き離していったんだ。
 そしてあっという間に1位でゴールしてしまった。

 予選ということもあり、他の選手達が全力疾走していたとは限らない。でも今のレース結果から想像すれば、留学生の彼が決勝でも活躍するのは確実だろう。
 ざわついた観客達の反応からしても確信が持てる。そして俺は初めて生で見る人並み外れた外国人の躍動感溢れる激走に、人知れず肌が泡立つのを感じたんだ。

 でも不思議な事に気後れする感じは無かったんだよね。あまりにも自分の実力と掛け離れているだけに、別世界の話だと無意識に判断したのかも知れない。
 けど妙に胸の奥が震えたのも本当なんだ。まるで『望むところだ!』って勝負に挑むチャレンジャーの感覚みたいにね。

 レベルの高さに感覚が麻痺してしまったのだろうか。なぜかその時の俺には怖さというものが無かったんだ。
 バカみたいな話だけど、負ける気がしなかったんだよね。誰がどう見たって、俺と彼では同じ土俵にすら立てていない。それなのに俺は甚だしくも気持ちを前向きに馳せていたんだ。含み笑いを浮かべながらね。

 君はそんな俺の表情を不思議そうに見つめていたね。でも君が察した俺への感覚は、弛みの無い頼もしさを覚えるものだったんだよね。

 明日のレースが楽しみで仕方ない。君が見た俺の姿からは、そんな余裕に満ちた雰囲気が伝わったらしいんだ。

 まったく、冗談じゃないぜ。そんなバカげた話があってたまるかよ。今更持ち上げたからって、実力以上のものなんて出やしないんだ。恥を掻くだけだから本当に勘弁してくれないか――。
 馳せる気持ちと現実を見据えた考えが俺の心情を矛盾した気持ちで満たしていく。そんな訝しい想いを誤魔化すために、俺は強く頭を掻きむしった。君にまでけったいな勘違いをさせてしまって申し訳ないと思ったんだよ。
 でも信じられない事にもう一人、君と同じ感覚を受け取ってしまった者がいたんだ。

 それは陸上部のキャプテンを務める、俺と同学年の男子学生だった。
 そんな彼が俺に突然話し掛けて来たんだ。ビックリしたよ。なにせ俺は彼と入部以来、ほとんど口を利いた事がなかったからね。

 彼は陸上の実力もさることながら、面倒見が良く非常に人望が厚い存在だ。まさにキャプテンと呼ぶに相応しい男なんだよね。
 もちろん俺だって彼の事を悪く思った事は無い。いやむしろ尊敬しているくらいなんだ。だって彼は俺と同じ1万メートル走の選手であり、そして今年の晩春に実施されたインカレで、並み居る強豪校の選手達と凌ぎを削り、俺の大学始まって以来の好成績を収めた実力者なんだからね。
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