明日へ馳せる思い出のカケラ
 嵐が過ぎ去ったかの様に、トラックは静けさを取り戻していた。

 するとそんな中で俺達に近づく足音が聞こえて来る。只事でない雰囲気を感じ取ったのであろうか。清掃作業をしていた年配の男性職員が、急ぎ足で歩み寄って来たのだ。

 肩を大きく揺らしながら駆け付けた男性の姿からして、必死に向かって来たことが分かる。でももう少し早く来てほしかった。
 男性にまるで非は無いのだが、それでも俺は罵りたい衝動に駆られ口先を尖らせた。

 ただラッキーだったのは、男性が携帯電話を持っていたことだ。
 落ち着きを取り戻した君から詳細を告げられた男性は、直ぐに救急車を呼んでくれた。そしてその10分後、駆け付けた救急隊員によって彼女はタンカーに乗せられる。そして救急車へと運ばれて行った。

 俺はその間、同時に駆け付けた大学の職員に事情聴取的な事をされ辟易していた。
 とりあえず彼女が無事だったんだから良いじゃないか。こっちは疲れてるんだから早く解放してくれ。彼女の命を救った満足感はもう、俺の胸の内で見当たらなくなっていた。
 けどそんな嫌気の差していた時だ。君が俺に駆け寄って来てくれたんだよね。

 俺はてっきり君も彼女に付き添って、救急車へと向かったものとばかり思っていたんだ。いや、もちろん君はそうするつもりでいたんだろう。でも君は俺にお礼を告げる為だけに、急いで駆け寄って来てくれたんだ。
 彼女に付き添う為に急いでいるのが分かる。でも君は俺に満面の笑顔で言ってくれた。

『ありがとう。本当にありがとう』って。

 俺にはその笑顔がまぶしく感じられて、思わず目を背けてしまった。なんとなく恥ずかしかったんだ。
 蘇生処置を繰り返す間、何度も逃げ出したくなっていた俺の弱い心を見透かされそうに思えて。
 だから俺は君に返事が出来なかった。本当に俺はバカな奴だ。なんでもっと素直に君の感謝を受け入れられなかったのだろうか。


 自宅への帰り道で、俺はそんな自責に苛まれながら歩みを進めた。
 大汗を掻いた影響で、初春の風がひどく冷たく感じる。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。さらに手の平には彼女の冷たい体の感触がまだ残っている。本当に俺は上手くやれたんだろうか。

 ここに来て急に恐怖が甦って来る。無事に彼女の命を取り留めたというのに、なぜか胸が締め付けられるほどに息苦しくて堪らない。自分の脆弱さに無理やり蓋を閉めて強がった反発力が、一気に膨れ上がって来たのだろうか。
 俺は胸に腕を押し当てながら、グッと奥歯を噛みしめた。

 俺は恐怖心におびえ立ち止まる。まるでアスファルトに同化してしまったのではないかと思えるほどに足は動かない。極度の不安に俺の心は黒く塗り潰されてゆく。
 でもそんな心細い胸の中で、俺は一つの温かい感覚を思い出したんだ。柔和で温かく、力強くて頼もしい。そんな感覚に俺の疲弊した心は支えられた。

 俺は右腕の手首に視線を向けた。そこは砂場に俺を同行させるために君が強引に掴んだ場所だった。それを思い出した俺は、そこを左手でそっと抑えてみた。

「あったかいな……」

 そこに君の温もりなんて残っているはずもない。それでも俺はホッと気持ちの休まる穏やかさを感じ、心をなごませていた。


 いつしか冷たい風は心地よいものに変わっていた。いや、俺の気分がそう感じさせただけなのだろう。けれど今はそれで良かった。

 緊迫した火急の事態だったけど、でも彼女を無事に救えたわけだし、何より君と同じ時間を共有出来た事に、その時の俺は嬉しさを覚えられずにいられなかったんだ。
 それがつらく哀しい二人の関係の始まりなんだなんて、これっぽっちも知らずにね――。
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