図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
「――――え?」
理解するのに数秒かかった。
作者、俺の親なんだ?
わたしの反応にかまわず、淡々と哲は言う。
「物語を考えるのが母さんで、画家が父さん」
名前書いてあるだろ、と言われて置いていた絵本を手に取る。表紙のタイトルの下に、小さく印字されている文字。
文と絵 小林慧・小林陽菜
「……ほんとに?」
おもわず敬語が取れる。ずっと好きだった絵本の作者。が、哲のご両親? 身じろいだ拍子に、椅子がフローリングの床を擦る。
哲は頷いて、なにかを思い出すように目線を遠くに向けた。
「ふたりとも忙しくてさ。ばあさんが保育園に迎えに来て、そのままばあさん家でメシ食って、風呂入って。小学校入ってもその生活。家族でどっか出かけたこともないんだぜー」
苦笑する哲の目の奥が、ふっと色味を濃くする。
「色んな子どもに夢与えるくせに、自分のガキは放ったらかしかよって思ったら、すげぇ腹立ってさ。いつだったかな、こんなふうに落書きして」
そう言って、わたしが持っていた絵本に手を伸ばす。哲の長い指が、鉛筆でグシャグシャにされたさとし君の顔をなぞる。
「だから、本が嫌いだった」
ポツリと落とされた言葉はどこか脆い響きをしていた。小さな小さな石が水に落とされたみたいに、わたしのなかに緩やかな波紋を呼ぶ。
ひとつの映像が浮かび上がる。今よりうんと小さな哲が家で一人、絵本のさとし君の顔に鉛筆をガリガリ引いている。細い背中が、泣くのを我慢して震えている。
タイムマシンがあればいいのに。二十六歳にもなって、子どもじみたことを真剣に思う。
そうしたら今すぐ飛び乗って、小さな哲を抱きしめてあげられるのに。
「小学校嫌いだった。保護者参観とか、親子遠足とか、夏休みの思い出発表とか。やなことばっかさせるんだって」
でも、と呟いて、哲は顔を上に向けた。反らした背の喉仏が浮かび上がって、わたしはこのひとが大人であることに安堵する。
「小学校で働きたいって思ったんだよなあ。俺みたいな子でも、学校楽しいって思ってほしいなって。そう思ったんだ」
ぎゅう、と胸の奥、柔らかな場所がつねられたみたいだった。このひとはやっぱり優しい人なんだ、と気づいて心がじわりと痛い。
「親が絵本作家なんて健全な仕事してるもんだからさ、反発するみたいに書いてやったんだ、エロ小説」
本嫌いなんですよね? と尋ねた時の、どこか暗い笑み。だから書くんだよ。哲はそう言っていた。
泣きたいような気もちだった。デリカシーがなくて強引で、それだけだったらよかったのに。
いろんな気もちを通過して笑っている哲は、わたしが思うよりずっと繊細だ。
「亜沙子の話聞いて、久しぶりに実家に帰ったんだ」
テーブルに落ちていた視線を上げて顔を見ると、哲は笑みを浮かべていた。
「あの人たち、やっぱ良い仕事してたんだよなって思ったら、なんか顔見たくなって。で、それ持って帰ってきた」
少し照れくさそうに笑って、哲は絵本に目を落とす。
「俺さぁ、さとし君がうらやましかったんだよな、たぶん」
みんなに愛されて、親の手から生み出されるさとしがうらやましかった。そう続ける哲の横顔は穏やかだった。
だから、浮かんだ考えは意識するより先に口から出てきた。
「――さとし君」
哲がふしぎそうにわたしを見る。わたしは絵本を手に取って言った。
「知ってますか? 哲の名前って、さとし、とも読めますよ」
哲の目が見開かれる。腕や肩に力が入ったのがわかった。
わたしは口を開いた。そうであってほしい、と願いながら。
「『さとしくんとよるのがっこう』は、ひとりぼっちのさとし君に友だちができるお話なんです。愛情あふれるおはなしをつくる人たちが、自分の子どもを大事に思わないわけない」
絵本を抱えてベッドに座る小さなわたし。嬉しそうな顔で続きをせがむりゅうき君。りゅうき君と絵本を取り合う友だち。仕事から帰ってきた夜に、古い絵本を捲る大人のわたし。
たくさんのひとがこの絵本を好きなのはきっと、愛を感じるから。
「忙しい自分たちの代わりに、ご両親は絵本のお友だちをたくさん作ってあげたんじゃないですか?」
それにほら、と呟いてページを捲る。一ページ目、一人ぼっちでぶすっとした顔でベッドに横たわる、さとし君。
ああ、やっぱり。
「そっくり」
哲の顔の隣に、開いたページを掲げる。今にも泣きそうな少年と、大人になった元少年。
ふふ、と笑う。捩じられてひやりと痛かった胸の奥が、柔らかくなる。
そうか、じゃあ。
「わたしの初恋って、哲だったんですね」
絵本が手から落ちる。伸びてきた手に乱暴に捕まれた後頭部。
唇に、哲の唇が押し付けられていた。
理解するのに数秒かかった。
作者、俺の親なんだ?
わたしの反応にかまわず、淡々と哲は言う。
「物語を考えるのが母さんで、画家が父さん」
名前書いてあるだろ、と言われて置いていた絵本を手に取る。表紙のタイトルの下に、小さく印字されている文字。
文と絵 小林慧・小林陽菜
「……ほんとに?」
おもわず敬語が取れる。ずっと好きだった絵本の作者。が、哲のご両親? 身じろいだ拍子に、椅子がフローリングの床を擦る。
哲は頷いて、なにかを思い出すように目線を遠くに向けた。
「ふたりとも忙しくてさ。ばあさんが保育園に迎えに来て、そのままばあさん家でメシ食って、風呂入って。小学校入ってもその生活。家族でどっか出かけたこともないんだぜー」
苦笑する哲の目の奥が、ふっと色味を濃くする。
「色んな子どもに夢与えるくせに、自分のガキは放ったらかしかよって思ったら、すげぇ腹立ってさ。いつだったかな、こんなふうに落書きして」
そう言って、わたしが持っていた絵本に手を伸ばす。哲の長い指が、鉛筆でグシャグシャにされたさとし君の顔をなぞる。
「だから、本が嫌いだった」
ポツリと落とされた言葉はどこか脆い響きをしていた。小さな小さな石が水に落とされたみたいに、わたしのなかに緩やかな波紋を呼ぶ。
ひとつの映像が浮かび上がる。今よりうんと小さな哲が家で一人、絵本のさとし君の顔に鉛筆をガリガリ引いている。細い背中が、泣くのを我慢して震えている。
タイムマシンがあればいいのに。二十六歳にもなって、子どもじみたことを真剣に思う。
そうしたら今すぐ飛び乗って、小さな哲を抱きしめてあげられるのに。
「小学校嫌いだった。保護者参観とか、親子遠足とか、夏休みの思い出発表とか。やなことばっかさせるんだって」
でも、と呟いて、哲は顔を上に向けた。反らした背の喉仏が浮かび上がって、わたしはこのひとが大人であることに安堵する。
「小学校で働きたいって思ったんだよなあ。俺みたいな子でも、学校楽しいって思ってほしいなって。そう思ったんだ」
ぎゅう、と胸の奥、柔らかな場所がつねられたみたいだった。このひとはやっぱり優しい人なんだ、と気づいて心がじわりと痛い。
「親が絵本作家なんて健全な仕事してるもんだからさ、反発するみたいに書いてやったんだ、エロ小説」
本嫌いなんですよね? と尋ねた時の、どこか暗い笑み。だから書くんだよ。哲はそう言っていた。
泣きたいような気もちだった。デリカシーがなくて強引で、それだけだったらよかったのに。
いろんな気もちを通過して笑っている哲は、わたしが思うよりずっと繊細だ。
「亜沙子の話聞いて、久しぶりに実家に帰ったんだ」
テーブルに落ちていた視線を上げて顔を見ると、哲は笑みを浮かべていた。
「あの人たち、やっぱ良い仕事してたんだよなって思ったら、なんか顔見たくなって。で、それ持って帰ってきた」
少し照れくさそうに笑って、哲は絵本に目を落とす。
「俺さぁ、さとし君がうらやましかったんだよな、たぶん」
みんなに愛されて、親の手から生み出されるさとしがうらやましかった。そう続ける哲の横顔は穏やかだった。
だから、浮かんだ考えは意識するより先に口から出てきた。
「――さとし君」
哲がふしぎそうにわたしを見る。わたしは絵本を手に取って言った。
「知ってますか? 哲の名前って、さとし、とも読めますよ」
哲の目が見開かれる。腕や肩に力が入ったのがわかった。
わたしは口を開いた。そうであってほしい、と願いながら。
「『さとしくんとよるのがっこう』は、ひとりぼっちのさとし君に友だちができるお話なんです。愛情あふれるおはなしをつくる人たちが、自分の子どもを大事に思わないわけない」
絵本を抱えてベッドに座る小さなわたし。嬉しそうな顔で続きをせがむりゅうき君。りゅうき君と絵本を取り合う友だち。仕事から帰ってきた夜に、古い絵本を捲る大人のわたし。
たくさんのひとがこの絵本を好きなのはきっと、愛を感じるから。
「忙しい自分たちの代わりに、ご両親は絵本のお友だちをたくさん作ってあげたんじゃないですか?」
それにほら、と呟いてページを捲る。一ページ目、一人ぼっちでぶすっとした顔でベッドに横たわる、さとし君。
ああ、やっぱり。
「そっくり」
哲の顔の隣に、開いたページを掲げる。今にも泣きそうな少年と、大人になった元少年。
ふふ、と笑う。捩じられてひやりと痛かった胸の奥が、柔らかくなる。
そうか、じゃあ。
「わたしの初恋って、哲だったんですね」
絵本が手から落ちる。伸びてきた手に乱暴に捕まれた後頭部。
唇に、哲の唇が押し付けられていた。