スノー アンド アプリコット

「後でどうなるかわかってんだろうな。」
「あんたに脅されるいわれなんかないわよ。」

大丈夫、あたしは壁際の奥の席に座っている。一井がどかない限り、ユキがあたしをここから引きずり出すことはできない。

「くだらねえ。こんなことで俺から逃げられると思うなよ。」
「あたしはあんたのものだったことなんて、一度だってないわよ。」
「違うな。」
「何が違うのよ。」
「お前は俺のものだ。ずっと。」
「ーー………」

恥ずかしげもなく、何を。
馬鹿なんじゃないの?

まともに取り合ったら負けだ。あたしには宿がある。帰れ。

「あたしは帰らないわよ。用は済んだからあんたは帰っていいわ。バイバイ。」

あたしが手をひらひら振ると、ユキは冷え切った目を一井に向けた。

「……あんた、シェフだって?」

一井は黙って微笑んだ。

「六本木に店ねえ。ふうん…」
「よかったら是非一度食べに来て。サービスするよ。」
「それはどうも。」

あたしがテコでも動かないだろうことは、ユキはわかりすぎるほどわかっているだろう。無理矢理あたしに手をかけることはなく、立ち上がった。

「いいか。今夜は絶対帰れ。」
「だから…」

あたしが言い募る前にユキは意外なほどあっけなく背を向けて、出ていった。頼んだコーヒーには口をつけていなかった。

「………」

ユキの後ろ姿をじっくりと見送ってから、一井は紅茶を一口飲んだ。

「僕の店は六本木じゃなくて、広尾にあるんだけど。」
「……どっちでもいいわよ。」
「ひどいなあ。まあそういうとこがいいんだけどね、杏奈ちゃんは。…でもね。」

それから、相変わらず笑みを浮かべたまま。

「帰りな。」
「は?!」

あたしは目を剥いて一井を見た。信じられない。思いっきり背中から撃たれた。

「彼、本当にただのお坊ちゃまくんなの?」
「そうよ。大病院の息子で、敷かれたレールに沿って医大生やってるだけの、ただのセレブなガキよ。」
「僕はそうは思わないなあ。」
「はあ?」

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