偽りの姫は安らかな眠りを所望する
日は落ち、代わりに青白い月が流れる雲の合間から時折ちらちらと姿を見せる。白薔薇館はすっかり夜の帳に覆われていた。
灯りを最小限に抑えた薄暗い室内で、なにかを堪えるようなくぐもった声が聞こえる。

「やっ、ダメです。そんなの、無理……。うっ!」

ティアは自由になる左手で敷布を掴んで、眉根を寄せた。夏の終わりを思わせる涼しい風が入ってきてるのに、額に薄く汗を滲ませ口を引き結ぶ。

「いつも私ばかりが心地好くなっていては、気が咎める。ティアにも気持ち良くなってもらいたかったのだが」

フィリスは指先で、ティアの手のひらにグルグルと円を描き始める。「きゃっ!」とティアが高い声を上げた。

「……フィリス、様。もう、許して、ください」

「なんだ、これもダメか」

涙声で懇願すると、ようやくフィリスは手を放してくれた。ティアはほっとして、香油でてかる自分の手を拭う。

「あたしはそれが仕事ですから。どうぞお気遣いなく」


今夜は、香茶も香油も準備万端でフィリスの部屋を訪れた。昼間の洗濯で荒れてしまったフィリスの手を、身体の内外から治そうと躍起になって施術を始めようとすると、彼が奇妙な提案をしてきたのだ。
「今夜は自分がティアを施術する」と。

当然の如く、素人が簡単にできると思われては困る、と抵抗したのだが、ティアとて最初は素人だったのだろうと、あたり前のことで反論される始末。

フィリスは椅子を運んできて座り、ティアには寝台に腰掛けろと指示をする。「ティアの手の動きは、私の手が覚えている」などと甘やかな声で囁かれ怯んだ隙に、まんまと右手を取られてしまった。

フィリスのために準備した香油をティアの右手に塗りたくった彼に、ごりごりと指を揉まれティアは悶絶した。細くすんなりした手はやっぱり男のもので、満身の力を込めているとしか思えない痛みが襲う。それでも厚意でのことと堪え忍んではみたものの、どうしても無理で――。

「それほど力を入れているつもりはないのだが」

首をひねりながら、フィリスはこれならどうだとばかりに、今度は指先を触れるかどうかという微妙な距離を保ちながら、さわさわと動かし始める。それはティアの背中をぞくぞくとさせるもので、無意識に身体に力が入ってしまう。


「強くても弱くてもダメでは、どうしようもないではないか」

フィリスは憤然と腕を組むが、そんなことを言われてもしかたがない。くすぐったさと恥ずかしさがない交ぜになって、これ以上は我慢ができなかったのだ。
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