偽りの姫は安らかな眠りを所望する
顎に手を添えて顔を引き寄せ、まだ濡れている頬の涙を吸い取るようにして、フィルが優しく唇を押し当てる。
眦から涙の跡を辿って下りてきた口づけは、最後にあたしの口に軽く触れて離れていった。

「確かに失ったものはあるけれど、後悔はない。それに、かわりに得たものだってたくさんある。旅をしなければ知ることのなかった知識も、そのひとつ。なにより、ティア。おまえがこうして腕の中にいることに、オレがどれだけ幸せを感じていると思う?」

抱き寄せられて、また唇が重ねられる。さっきよりも少しだけ長く、熱い。

「ずっとこうしてみたかった。一度も重ねたことのないはずティアの唇の感覚が、夢の中では何度も襲ってきて逆に苦しかった。ようやく会えて、初めてこの唇に触れた時は、嬉しさに泣きそうになった」

しっとりと潤いの戻った指先で、フィルはあたしの口の輪郭をゆっくりなぞっていく。そわそわと落ち着かない気持ちが、胸の奥にわき上がる。

「初めて……」

あたしには、湖の畔でのことが思い出されるのだけれど。
彼の中ではやっぱり夢うつつの出来事だったとわかると、なんとなく残念なような、でもあたしだけの秘密をもらえて嬉しいような複雑な気分だ。

つい、ふふっと意味深な笑みを洩らしてしまうと、途端にフィルが不機嫌に眉を寄せる。蜂蜜のようにとろみのあった甘い空気が一変した。

「まさか、ティアはあれが初めてじゃなかったのか?」

あまり聞いたことのないフィルの焦りと戸惑いの混じった声音に、イタズラ心をくすぐられてしまう。それに、さっき引っかかったこともあるし。

「フィルこそ、娼館なんかに連れて行かれてどうしたの? ああいうところって、美人で良い匂いのする女の人がいっぱいいるんでしょう?」

あたしが問うと、フィルは不自然に目を逸らした。そんな彼の反応に自分で訊いておきながら、チクリと胸が痛くなる。
ラルド様だって、フィルだって男の人だ。そんなことで責めるのは、子どもじみているとわかっている。

でもやっぱり、イヤ……かも。


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