どこまでも、堕ちていく。

「なおきセンセーはピアノが下手なんだよ。だからママに教えてほしいって」
「?」

息子の口から突然出てきた突拍子もない言葉に、頭の中がハテナで一杯になる。
確かに私は子どもの時からピアノを習っていたけど…。
思わず直樹のほうを見ると、彼は少しだけバツの悪そうな表情をしていた。

「実はピアノがあまり得意ではなくて。前の幼稚園では女性の先生に任せきりだったので」
「あ、なるほど」

幼稚園の先生だから伴奏を弾きながらみんなで歌うような機会があるんだろう。
話を聞くと、彼はこの幼稚園に来てから必死でピアノを練習しているらしい。

「雅紀くんが"うちのママ、ピアノうまいんだよ-"と教えてくれたんです。それなら習いたいな~と軽く言っただけで」
「そんなに上手くないですよ。昔やってただけなので」

いわゆる社交辞令ってやつだろう。
彼も本気で園児の母親に習おうなんて思っていないはず。

「ピアノ教室にでも通おうかと思ったんですが、ほとんど弾けない大人の男性に教えてくれる所なんてないですよね?」
「うーん…」
「仕事があって通える時間も限られてるし」
「あ、それなら…」

私には1つ心当たりがあった。

「私の知り合いに音楽の先生やってた人がいるんです。その人に教わるっていうのは?」

こっちに来てからたまたま知り合った山口さんという女性。
中学校の音楽教師だったけど、数年前に体調を崩して学校をやめたらしい。
今は趣味で近所の子どもにピアノを教えているのだ。

「この近くですか?」
「ええ。良かったらお願いしてみましょうか?」
「はいっ、お願いします!」

子どもみたいに目を丸くして私のほうを見つめる直樹。
その表情を素直に可愛いと思ったー。


~~♪

夕暮れの教室にピアノの音が鳴り響く。
雅紀にせがまれて1曲弾くことになってしまった私。
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