大人にはなれない

2) 甘くて苦い誘惑


2) 甘くて苦い誘惑


俺の家、敷島家は女だらけの4人家族だ。

母さんと、今年高校生になったばかりの姉貴の由愛、妹のような存在のひまり、そして唯一の男で中学3年生の俺。

父さんは俺が中学に上がる前に天国へと旅立った。

風邪を引いてめずらしくあの父さんが寝込んでいるなと思ったら、急に容態を悪化させ、意識が戻ることがないまま息を引き取った。母さんから後から聞いた話し、父さんは長く肝臓を患っていたらしい。そのことを知っていた母さんでさえ呆然とするほど、父さんの死はあまりにもあっけなく、突然のことだった。

その日の夜のことは今でもよく覚えている。

救急車に運ばれていく土気色になった父さんを見て、きっともう助からないだろうということに当時11歳だった俺は気付いていた。なのに俺は由愛や母さんのように追いすがって泣くことが出来なかった。赤ん坊だったひまりすら、何かを察していたかのようにいつもとは違う泣き方をしていたというのに。


常日頃から父さんには『父さんに何かあったら、男のおまえが母さんたちを守ったやるんだ』と言われていた。

けど今まさに父さんを失おうとしているその瞬間、俺の頭の中は父さんとの約束ではなく、『明日からどうなってしまうのだろう』という不安が占めていた。


『お金がない』という容赦のない現実は、俺に身内の死すら十分に悲しませてはくれなかったのだ。



* * * * * *



「まあまあすごい汗ね。美樹くん、大丈夫?」

前に景品でもらったエコバックに、特売セールの戦利品を詰め込んで『おひさま園』のたんぽぽ組の教室に駆け込む。すると中から出てきた顔なじみの先生は、息を切らす俺と俺が抱えているいびつにふくらんだエコバックとを見比べて苦笑した。

「ご苦労さま。今日も荷物がいっぱいね」

ちなみに今日はスーパーの常連客のおばさんたちから伝授してもらった『詰め放題の超テクニック』のお陰で、たまねぎ、にんじん、じゃがいもに青菜、どれもたっぷり10個以上買えてついでに特売肉もゲット出来た。会計はしめて842円、千円切れた。

母さんならこれで家の残りの食材と合わせて一週間はまわしてくれるはずだ。


「美樹くん少し休んでいく?息切らせて、苦しそうよ?そんなに急いで来ることないのに」
「……や、……でも、……時間………すみませ………」

この『おひさま保育園』の保育時間は夕方の5時まで。もう5分は過ぎてしまっているから遅刻だ。教室の柱時計に視線を向けた俺に、ベテランの森先生は目を細めた。

「ほんと美樹くん几帳面でいい子よね。ちょっとくらいなら遅れたってかまわないのに。……ほらひまりちゃんっ。おにいちゃんがお迎え来てくれたわよ!」

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