遅刻ノート
遅刻ノート
『もし、自由に遅刻できる社会が訪れたなら…
   みんなが遅刻することが当たり前の世界になったなら…
 満員電車、朝寝坊、自由な世界が訪れたなら!!
    これはそんな世界に生まれ変わる、新世界の物語!!!!」

           遅刻ノート


その日、経団連本社ビルのような偉そうなビルに、世界の経済界を代表する人物が集結していた。
「皆様。今年に入って生じている自体が、全くもって不可解な事象であることは言うまでもないでしょう。今、世界中で遅刻者が大量に発生しているのであります。皆様。これは既に調査により、ストライキやサボタージュとは全く関わりがないことが判明しております。具体的に言えば。勤勉な中堅社員が出社中事故に遭い、示談することになったという理由で遅刻をします。かと思えば、バスが来なかっただの、犬に噛まれただの、意味不明な理由で遅刻をしてしまうケースが起こっているのです。不可思議なことに、この事態は、発生している企業とそうでない企業が明確に区別されているということなのです。ここに我々としましても、これが自然現象ではなく、何らかの意志が働いているのではないかと疑わざるを得ません」

議長が拳を振りかざしながら唾を飛ばしている放送は、世界中の警察、国家へと流されている。

「なぜか遅刻する」

世界がこの謎の現象と直面し始めた頃には少なくとも世界に一人、この謎の事件の真相を知る者が存在し、彼はその中継を、優越感に満ちた表情で見ていた。

2016年には、日本社会は大混乱に陥っていた。何しろ、出社時間に誰も来ないのである。それも日によってあやふやで、つかみどころがない。
遅刻をいちいち注意しても埒が明かず、ついには遅刻を解禁する企業が登場すると、世論も盛り上がりを見せた。
「こういった事態にですね、柔軟に対応することも、ひとつ、肝要であるかということをですね、適時適切に判断すべきかと」
という世論に対しては、一言で言えば、「社会人として示しが付かない」という意見である。

そして世界に神は君臨した。

ある日、東村は出勤途中の道を走っていた。
目が覚めた時、出勤時間の5分前という、時の神クロノスでもない限りどうすることもできない致命的な状況だった。
家を出る時、電話を入れた。既に定時1分前だった。「しょうがねえな」と言われた。
ふと、走るのをやめた。どうせ間に合わないのだ。5分10分早く着いたところで「遅刻者」になるのは免れない。

遅刻ほど、弁解の余地のない罪も、ないものだ。いかに自己管理をしていようと、どうにもならないこともある。
何しろ、時間の話である。過ぎてしまった時間はどうしようもないではないか。あるいは、遅れた時間分を退社時間に働けばそれですむような話ではないか。まったく、どうにかしている。遅刻をしない奴というのは、頭がおかしいに違いない。

東村は道に、ノートが落ちているのに気がついて、それを拾い上げた。
「…遅刻ノート!?」
 なんだこりゃ、と思い、めくってみる。
「使い方……。1、このノートに名前を書かれた者は遅刻する」
 くだらなすぎるだろ……。
「対象は個人、企業、国家を問わない。また、遅刻の状況を指定することもできる。この時、対象が絶対に取り得ない行動だとしても、ノートに記せば必ずその通りに、遅刻する」

 あまりのくだらなさに若干引きつつ、これは面白いなと想った。遅刻の状況を指定することができるというのも、面白い。
たとえば極端な話、「5月1日正午アメリカ合衆国大統領が核弾道ミサイルを発射する予定だったが遅刻して定刻遅れで発射した」
とでも書けるということではないか。

まったく、世の中にはデスノートなんてのもあるくらいだ。遅刻の神様がいても不思議ではない。
東村は社につくと、さっそく上司の名前を書きなぐってやった。遅刻の状況は下痢にしてやった。

さて翌日。やはりというべきか、当然というべきか、その上司は朝礼の時間に姿を見せなかった。
これはいよいよ本物だぞ。念には念を入れて、5人ほど名前をノートに書いてやった。
理由はどうするか?これは問題だ。まず「ヤクザの事務所に殴りこんだため」。「パズドラのやり過ぎ」「自分では間に合ったつもりだった」
「冬休みだと想った」「午前と午後を間違えた」まあ、こんなところか。

さて翌日……。
「何だ。5人も来てないじゃないか」
 教師が呆れている。ヤバい。これは・・・本物か!?となると、木村、ヤクザの事務所に殴りこんだのか!ヤバい、笑えてきた……。西村何か、冬休みと勘違いして今頃寝ているのか……。これは面白いな……。
 午後になって木村が遅れてやってきた。さすがにボコボコにされているというわけではないが、それとなく聞いてみた。「木村、遅かったな、どうした?」
「いや……、電車でヤクザが因縁つけてきてな……その、事務所に行くことになって……、いや、いいんだ」
 これは……!遅刻ノート……本物だ! 
 大変だ。とんでもないものを手にしてしまった……。誰でも遅刻させることができてしまうノートなんて……。
こんなものは不幸しか生まない……。俺はひとに遅刻をさせて、それをほくそ笑んで喜ぶような手合じゃないのに……東村はそう想った。
 いや、待てよ……。発送を逆転させるんだ……。人に遅刻をさせるんじゃない、皆に遅刻をさせるんだ。遅刻が当たり前の世界……。そう。それは俺の夢でもあったじゃないか。毎日満員電車に駆け込むこともなければ、ストレスで電車に飛び込む人も少なくなる理想の遅刻世界……。俺にしかできない!東村は誓う。新世界の、遅刻神になる!しかし、その決断は普段より5分遅かった。


 新世界の神になろうと決めた東村は、やはり遅れてそのうんざりする前途にうんざりした。
「一日にどれだけの企業名を書かなければならないんだ?国外の企業リストなんか、どこにあるんだ。うわあ。やめようかなあ」
 何しろ、新世界を作ると決めた日に仕事を辞め、失業保険の申請も忙しいのである。
「こんなに報われない仕事もないもんだ。いや、神なんていつの時代もそういうものだったのかもしれない。
 それに。
「死神は来ないのか!死神は」
 遅刻しているのだろう。


政府緊急対策会議が行われるのも、マンネリ化してきた。
政府の役人や大学教授が集まっている。
そこにまた一人遅れて現れる。
「すいません。猫が死にまして」という言い訳を口にした。
「ったく…」
「今度は死なない猫を飼うことだな」
議長がニヤリと笑みを浮かべて皮肉を言った。

会議の進行役が口を開いた。
「今回の調査により皆様に報告させていただきたいことがございます。お手元の資料を御覧ください」

会議の出席者からざわめきの声が上がった。
「これは……」
「神だと」

進行役が言う。
「これは主にインターネットを中心に自然発生的に誕生した存在です。今回の事態はこれはもはや
神が我々に遅刻していいよというメッセージだと捉え、一部の民衆からは救世主などと呼ぶ者も現れています。大きな動きには至っておりませんが、
呼ぶものはその存在を『チコ』と呼称しています」
一部で笑いが起きた。
「そしてもう一点。あえてチコと呼びますが、チコが日本に実在するのではないかという噂があります。これはかねてより取り沙汰されておりましたことですが、諸外国と比べて、日本の企業の遅刻被害が圧倒的に多い。これは何らかのメッセージとも取れるということですな。もっと言えばデスノートは日本にあったという前例がある」

会議の出席者からは「参ったな」「前例が前例だな」という声が上がる。

「こちらから打って出ることはできないだろうか」と一人が口を開く。
「たとえば、どんなだ」隣の出席者が応じる。
「知りませんよ」
「遅刻者が最初に増えたエリアを探るとか。これ、重要でしょう」
「俺の仕事じゃない」
「ところが、俺の仕事なんです。チコ捜査本部背任」と出席者の一人が言った。彼の名は神林といった。

 数日後、日本警察、チコ捜査本部が発足していた。
「なかなか、やりがいの有りそうな仕事じゃないか。神を探すなんて」
「神林さんは、楽しそうですね」と言ったのは、橋高という刑事だった。
「楽しいだろう?命の危険もなさそうだ」
「アリ派ですか?ナシ派ですか?」
「?」
「チコの存在ですよ。誰に聞いたって、アリですけどね……」
 遅刻ができるなら、それに越したことはない。社会は遅延証明で回っているのである。神林は、そう思った。
「まあ、そうだろうな……。異論はないよ」
 捜査本部の中心にあるデスクに座している幹部がそれを咎めるように言った。
「そんな話は謹んでくれ。冗談でも駄目だ。ツイッターが騒ぐ」
「どうも、部長」と神林。咎めるように言ったのは、捜査本部長の吉田である。
「楽しくもないぞ。高校の出席データ集めとか、雲をつかむような話だ。いまのところはな」
「進展はあるのですか」
「ある高校で5人が遅刻してきたクラスというのがあったが、どうかな」
「FBIが暗躍したりってのは、遠い世界ですね」


しかしこの翌日、世界が驚愕した。

「なんだこれは!ディスプレイが乗っ取られてるじゃないか!」
 捜査本部のパソコン、テレビが何者かに侵入され、リアルタイムで音声が流れ始めたのである。
「こんなことがあるのか…おい!テレビに何か映るぞ!」

『私はチコです』
東村は我慢できなかったのだ……。自分が神であることを叫ぶことに!

「マジか」
「マジです。このチャット回線を警察の回線に繋いでおきました。さて、証明してみせましょう。ウィンドウをご覧ください。今山手線が遅れています」
「神様もウィンドーズを使うのか?」
「二度は言いません」
「うーむ」
「これは警告じゃないか。山手線が遅れたということは、チコは好きな時間に遅らせられる可能性がある!」
「そのとおりです。これは、人質だとお考えください」
「人質!?要求は何だ!」神林が登場して叫んだ。
「傍観です」
「傍観だと!?」
「私は、チコとして世界を遅刻のない世の中にすることが目的です」
神林は神との直接対決に感激しつつ言った。「いやに聴き分けがいいな。だから、要求は何だ!」
一呼吸置いて、チコは言った。
「そいつはまずいなあ。あいつ、本気でとんでもないアイテム獲得してる」
「まさか、核か?」
「操作すればいつでも押せるらしい」

「おい、全局チコの同時配信だぞ」
「凄いことになってるぞ」

「日本に要求します。私を支持するかどうかの各国の意思をまとめてください。そのうえで裁きを下すとします。曖昧な表現はやめましょう。私を支持しない国には核の危機があります。世界は危機的状況にあります。都合のいい言葉を使えば、テロだと取っても良いでしょう。世界の創造に協力するかしないか、世界は、あなた達の意志に委ねられているのです」


「日本 代表国へ」
「遅刻犯人 全世界投票を要求」

「一夜明けまして、各国の状況が入ってきております。木村さん」
「はい。まずは、アメリカはチコを支持する模様です。繰り返します。アメリカは、チコを支持します。これに関連諸国もならうかたちで、ロシア、中国、オーストラリア、フランス、イギリスすべてがチコを支持します。今のところチコの要求を受け入れない国は、ありません。」

「当たり前だ!核が降ってくるんだぞ。チコを支持するかどうかなんて、こんなくだらない議論はない。断れば核なんだ」
「何も特別なことをする必要もないんだ。特別な立法もいらない。ただ少し、タイムスケジュールが狂っているだけだ」


< 1 / 10 >

この作品をシェア

pagetop