遅刻ノート
チコ対策本部
 橋高が、コーヒーを片手に神林に話しかける。
「どうなるかと思いましたけど、みごとにチコに世界は屈しましたね」
 神林は世界地図が表示されたパソコンのディスプレイを見つめながら言った。
「まったくだ。中東も欧米も綺麗なもんだ。北朝鮮も北、南。世界は同じ敵を持つと結束するんだな」
「ただ……、あの国があります」
「ああ……あの国がな」
 部長の吉田がキリッとした表情で割り込んで言った。
「チコは核爆弾を使うと言ってる。それは歴史上みても大変な事態だ。ヒロシマ・ナガサキに次ぐ惨劇が起ころうとしているんだ。だが忘れてはならない。『あの国では朝の5分は命より貴重なのだ』」

 その日、NHKでニュース速報のテロップが表示された。その内容に、日本中は衝撃を受けた。
「木村さん。今、速報が表示されていますが」
「はい。聞こえますか。音声は。日本は!日本はチコに従わない模様です!未確認の情報ではありますが、日本はチコに従わない、という意思をしたのではないか、という情報です」


「官房長官!」
 この速報を入手した記者は首相官邸に現れた官房長官に食って掛かった。しかし官房長官は何も言わず立ち去る。
「お前何考えてるんだ!!」
「チコと敵対するつもりか!!」
「東京に原爆が落ちてもいいのか!」
 この日、国連から正規不正規を問わず世界中から多くの圧力が日本政府にかけられた。

新宿ALTAのTVモニターを見上げて人々は口にした。
「日本だけ対抗って…マジかよ」
「何考えてんだ」
「たかが遅刻だろ……」

 テレビ番組はその日CM無しでこの情報を伝え続けた。
「木村さん。なにか新しい情報は入っていますでしょうか。」
「日本がチコに従わないのかどうかを含め、なぜ従わないのか、そこにどんな思惑があるのか、ないのか。いまだ新しい情報は入ってきておりません!」
「そしてここにきて、政府筋の信頼性の強い情報として、『日本はチコに従わない』意思決定をした模様です。これはほぼ確実な情報です」

「世界で日本だけが、遅刻する生活を許容しません!」
「日本政府は明日9時から総理大臣が発表をするという情報が入ってきてまいりました。内閣が何か、大きな発表をする模様です」


 そして9時になった。
 その時間を、チコは尊重した。チコは日本国民と一緒に、テレビでその中継を見ていた。
 総理が姿を表した。フラッシュが焚かれる。
 正面に立ち、間を取り、総理が口を開いた。目は手元の紙に飛んでいる。
「今、私たちは危機的状況下におかれています。チコなる存在と、その影響。昨日チコなる存在はテレビにおいて、遅刻ある社会を許容するのか、しないのか。世界に回答を求めました。結果、日本を除くすべての国々がチコの存在を受け入れるという回答をしました。安全を選びました。」
 総理は一呼吸置いた。
「日本政府は、チコを支持しません!!それは、核があるのか、ないのかであるとか、安全か、危険かであるとか、そういうことではないのです。日本において、朝の5分は、命より貴重なのであります。命より貴重なのであれば、これに勝るものはありません。筋が、違う話なのであります」

渋谷
「日本やりやがった、馬鹿……」
「日本の異常性がこういう時際立つよな……」

「木村さん、情報をお願いします」
「今、総理の口から発表がありました。正式に、チコと戦う意志を示しました。そしてその理由として、日本において遅刻をしないことは命より貴重なことであると述べました。これ以上の情報は入ってきておらず、その意思決定の過程でどのような議論がかわされたのか、交わされていないのかなどの話は伝わってきておりません」

「高橋解説委員。思いもよらぬ発言といいますか、どうか」
「何を考えているのかと思いますが、何時の時代でも私たちはこうだったのかもしれません。『駄目なものは駄目』という思想ですね。「遅刻」は「遅刻」、いつでもそうだったかもしれません。しかしこれで、国民の生命をチコに譲り渡したのですから、冗談では済まされないということになりますよ」
「この意思決定をうけ、早ければチコは今日にも何らかの声明を発表するのではないかという不安の声が入ってきております。」

渋谷 路上
「あーりゃんさー、だれんくださー、だめくさ(あれは誰だ、誰の考えかしらないが、支持できない)」
「国民の命をなんだと思っているのか。議論以前の問題。(国民の命をなんだと思っているのか。議論以前の問題。)」
「このように、政府の決定を受け国民からは不安の声が上がっています。」
「日本の意思決定を受け、万が一の事態に備え自衛隊がパックスリーの準備を整えた模様です。」
「これはチコに反する態度を表明した以上、チコがどのような行動に出るか予測がつかない事態となったわけですね。」
「高橋解説委員。かつてない核の機器が現在発生していますね」
「チコは自らに背いた日本を世界各国の見せしめにすることができるのですね。核が爆発した、見ろ、日本はああなったぞというやり方が取れるわけです。そういう意味でも日本は極めて危険な状況にあると言っていいでしょう」
「皆さんしばらくおm

 国民保護サイレン

「政府が国民保護法に基づき国民保護情報を発表しました。屋内へただちに避難してください。今、国民保護サイレンが鳴っています。政府は国民保護法にもとづき、国民保護情報を発表しました。核ミサイルの危険があるということであると、思われます。今、国民保護情報が発表されています。屋内にいる方はなるべく屋内へとどまってください。テレビやラジオのスイッチを切らないでください」
.
渋谷
「だったら最初からチコに逆らうなよ」
「え?これ飛んでんの?」

「現在確認されているミサイルは、ありません。核ミサイルが発射されたという情報はありませんが。念のため屋内へ対比してください」

4時4分
「チコです」

渋谷
「4分遅れって……」

「日本の決定を残念に思います。核を乗っ取っておいて、『安心するな』というのも馬鹿な話なので、核には当分注意してください。
しかし、国民の命を本当に何も考えていないんですね……。こんな国だから、KAROSHIなんて概念が生まれるんですよ。日本政府のこの出方は想定はしていましたが……。これでチコには打つ手がなくなりました。考え方を変えてみれば、世界は日本か、そうでない国かに二分されたのです。世界は遅刻のない世界へと進むのです。今はこれで、良いのです。神はかつてかえれみれば存在していたのかもしれないというものでいいのです」

その日、チコ捜査本部の会議。
 部長は言う。「意外と、あっさりと引き下がったな」
 チコと直接やりあった神林。「覚悟はしたんですが。日本の異常さにあきれたと見えます」
「チコはどう出るんだ」
「どうも出ないのかも……」
 橋高はパソコンのディスプレイから顔を上げて報告した。「部長、今のホットラインのログを読んでみたんですが、洗えるサーバかもしれません」

「ところでな、神林……」
「はい」
「遅刻って、心の問題だと思うかね」
「心の問題ですよ!いろんな意味で」
「例えば、どうだ」
「個人の問題です。遅刻は、基本、迷惑度は高くありません。となれば、捉えようですよ。」
「神林、もう一つだけいいか。『遅刻はダメ人間測定器』これについて意見を聞きたい」
「悲しい事実があるかもしれません」
「……覚悟はできている」
「おそらく、それは正しい。ものすごく大雑把な測り方だけれど、概ね間違っていない。生活を時間でくくることで、ほんの少しだけ生活のハードルを作って、あげているだけなのですが。そうすると引っかかる奴が出てくる。ダメな奴は大抵引っかかるんです。遅刻する奴は、それがなんであれ、自分の問題を処理できていない結果に他ならないでしょう」
「う…むぅ。そうだな。」
「しかし…部長。既存の制度を見直すことも必要なのではないかと。きっと今がその時期なのです」
神林は、部長はチコの気持ちがわかる人なのかもしれない、と思った。


日本政府がチコと敵対する方針を決めたことで、諸外国も反応を示した。

「日本 対チコ法案制定へ」
「駄目なものは駄目」各国も評価
「厳しすぎるのでは」世論割れる

 しかし、チコに日本以外の世界が屈服したあの日、たしかに神は存在した。
 そして世界を分けたのである。日本と、日本以外に。
 それはまさに、遅刻の世界の誕生だった。世界は遅刻した。


 一方日本では、ついに、チコ事件捜査本部がチコ個人を特定した。決め手はテレビ中継に割り込んだインターネット回線のアクセスログという、単純なものだった。
神林が叫ぶ。
「東村ぁ!手を上げろ!」
 マンションのドアを蹴り開け、部長が踊りこんだ。
「何をする!」
 神林がチコ・東村が書いているノートを取り上げて首を傾げた。
「何だこりゃ。遅刻するノート?何だこりゃ?」
「僕は新世界を創っているのだぞ……なぜここがわかった」
 捜査本部の一人が言う。
「テレビ放送にインターネットをねじ込むような真似は勘弁してもらいたいね、就職浪人。努力は認めるがね」
 さらにもう一人が食って掛かった。
「俺は認めない!皆、遅刻しないように頑張って生きてるんだろ!」
 チコ・東村が歯を食いしばって、この野郎、と言う。
「遅刻しないやつに何がわかる!?」
 双方をなだめるように神林が言った。
「待ってください。こいつも神の一人です。それなりの思い入れや思い込みや努力や苦悩があっているわけでしょう。
この国は、会社行きたくないって、通勤途中に電車に飛び込む凄い国だ。誰かが変えなければいけないと考えるのは、誰だって同じだ。
とりあえず東村、お前はやり過ぎた。世界を2つに分けるとは、ここ5000年のスパンでみてもそう起こっちゃいない。核で国を脅すとは、ハリウッドみたいなことをやるじゃないか。そういう奴に限って、穴があったりするんだ」
「穴があるやつはたいてい遅刻している奴さ。遅刻するような奴は、どこかに穴があるとでも言うんだろう!?公務員に何がわかる!?お前たちは、いつだってそうだ……。言ってもわかるまい。僕を誰が裁く!?」
 ニヤリと捜査本部の一人が吐き捨てるように言った。
「お前!放送法とか、多分違反してると思うぜ!」
「ふん……。チコが正義だ!!!!!」
 拘束されたチコは神林に、公務員め、と叫んで連行された。

 そしてこのチコの拘束劇は、新世界創造にまつわる出来事の、ほんの1編に過ぎなかったのである。
 チコとノートをめぐって、世界は新たに回り出す。

…………

これはそんな戦いから遠い時代の、ある国の、ある時間の、ある朝食の光景である。


「おはよう」

「おはよう」
祖母
「おはよう」

「急がないと、遅れるよ」
「何?おばあちゃん。オクレルヨって」
「ああ。ついね。今じゃ考えられないけれど、昔はね……決められた時間で行動しなければいけなかったのよ」
「そのことを、オクレルヨって言うの?」
「まあ、ね。ついていけなかったりしたことを、オクレルヨって呼んだの」
「オクレルヨはどうなったの?」
「ほとんどが自殺したの」
「えっ!可哀想」
「それはその人が悪いってことにされたのね。何万人も、オクレルヨが自殺しても誰もなんとかしようとしなかった。そんな時、神様は遅れてやってきたのね」
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