ポラリスの贈りもの
65、ベッドサイドの天使

壁に凭れ待っていたカレンさんと浮城さんの前を、
話しながら通りすぎた看護師たち。
ひとりの看護師が覗き窓から北斗さんの病室をちらっと見て、
すれ違いざまにぼそっと話した内容を聞いていた、
カレンさんの顔色が急に変わる。
そして、看護師ひとりを透かさず呼び止めて、
堪能なフランス語で淡々と話しかけた。


看護師A「4Aの11?海難事故の負傷者ね」
看護師B「救急搬送されたとき、
   トリアージ・タッグがレッドだった日本人の患者よね」
看護師A「ERに入った時はCPAだったって、ニコールから聞いたわ」
看護師B「そう。それじゃ回復は難しいかもね」
看護師C「そうね。あの日は私もERに入ってたんだけど、
   drowning(ドゥラウニング…溺水)の状態で運ばれたみたい。
   低酸素性脳症による意識障害や、
   肺の末梢血管の透過性亢進によるARDS、
   肺感染症の可能性もあるからって、
   カール先生が慌てて処置していたもの」
看護師A「カール医師って、脳外科で臨床研修中の?
   彼、ERにも入ってたんだ」
看護師C「ええ。あの日は他からも搬送患者が来て、
   ERはごったかえしてたから、
   スタッフが足りなくて駆り出されたんじゃない?
   何とか捌ききったんだけど、大変だったみたいだわ。
   submersion(サブマージョン…浸漬)でも、
   immersion(イマージョン…浸水)でも、
   臨床的にはほとんど変わらないもの」
看護師B「どちらにしても予後不良ってことでしょ。
   もつかしら。蘇生できただけでも奇跡よ」

カレン「貴女、ちょっと待って」
看護師B「はい。私に何か」
カレン「今の話、北斗七星のことよね」
浮城 「お、おい。カレン。どうした?」
看護師A「えっ。あの、貴女は?」
カレン「4Aの11。この病室に入院してる北斗七星の身内よ。
   回復が難しいってどういうことよ」
看護師B「あ、あの、患者さんの詳しい病状は、
   担当のドクターがお答えしますから」
カレン「つい今し方、私たちの前で、
   貴女が世間話のように言っていたことよ。
   予後不良!?『もつかしら』ってどういうことなのよ!
   助からない患者のことなら、
   どこでどう話そうといいってわけ!」
看護師B「私はそんなつもりじゃ……」
カレン「私の質問に答えなさいよ。
   この病室の中では、
   最愛の人の横たわる姿を見て泣いている人間がいるのよ!」
看護師A「す、すみません。
   私たちの担当ではないので詳しいことは。
   今から担当医かここのナースをお呼びますので」
カレン「貴女たち!説明できないんだったら、
   患者の身内の前で、あんな無責任なことを言わないことね!」
浮城 「カレン、やめないか!
   すみません。
   僕からよく言って聞かせますから、
   どうぞ構わずに仕事に戻られてください」
看護師B「こちらこそ、すみません。失礼します……」
看護師C「あれ、なんなの?」
看護師A「恐いわねー」
カレン「陽立!どうして止めるの!?」
浮城 「君こそ、
   いきなり看護師を捕まえて怒鳴り散らしてなんなんだ」



私はカレンさんの荒らげる声を聞き、
北斗さんの手を優しくベッドに戻すと、ゆっくり立ち上がる。
そして、ドアを少し開けて廊下の様子を窺った。
掴みかかる勢いのカレンさんは涙を浮かべ、
制止する浮城さんに抑えられながら看護師たちに叫んでる。
看護師たちは浮城さんに促されて、
ぼそぼそ話しながら、
そそくさとエレベーターのある方へ立ち去っていった。



浮城 「ここは病院なんだぞ。すこし落ち着け!」
カレン「陽立はさっきの会話聞いてなかったの!?」
浮城 「俺は、フランス語で話されても解らないからな。
   彼女たちが何を話していたかなんて理解できないよ」
カレン「カズが救急搬送された時、
   『トリアージ・タッグがレッドで、ERに入った時はCPAだった』だの、
   『4Aの11の患者は、予後不良だからもつかしら。
   蘇生できただけでも奇跡よ』だの、
   彼女たちは平然と話していたの。
   正に私たちの目の前で、治療後の回復が見込めないって言ったの!
   つまりカズはこのまま目を覚まさないって話していたのよ!
   そんな大変なこと、
   世間話の様に言われて冷静でいられるわけないでしょ!」
浮城 「もしそうだとしても!
   落ち着かなきゃいけないんだ。
   俺たちだけは」
カレン「陽立は平気なの!?」
浮城 「平気なわけないだろ!
   俺は、医師の説明を聞いてる東さんと流星の口から、
   本当のことを聞くまで、カズの回復を信じて待ってるだけだ」
星光 「カレンさん。浮城さん」
カレン「あっ!」
浮城 「星光ちゃん……」
星光 「あの、カレンさん……
   七星さんは回復は見込めず、目を覚まさないって、
   本当なんですか?」
浮城 「星光さん。それはね」
カレン「聞いていたのね」
星光 「そんなの、うそ……」
浮城 「星光ちゃん!くそっ!
   カレン、カズを見てろ!」
カレン「星光さん……」



私は病室を飛び出し、
ナースステーションの前を小走りに通り過ぎて、
病棟の一番奥にある、
非常口であろう緑の標識が書かれた分厚いドアを押し開けた。
浮城さんもすぐに私の後を追いかけ、
一度ドンッと閉まったドアを開ける。
4階と3階の間にある踊り場で、私は蹲り口を押えて泣きながら、
震える手でジーンズのポケットから携帯を取り出した。
そして座り込んだまま、東京に居る母に電話したのだ。
5回コールした後、優しい母の声が聞こえ、
私は藁をもすがる思いで話し出した。
追いかけてきた浮城さんは不安そうな表情を浮かべて、
私の情けない姿を見下ろし、手すりに掴り見守っている。


(Y・マルセイユ総合病院4階。非常階段)



美砂子『もしもし?』
星光 「もしもし、お母さん」
美砂子『星光、メール見たわ。
   無事フランスに着いたのね』
星光 「お母さん!お願い、助けて……
   七星さんが、七星さんがぁ。うぅ……」
美砂子『星光!?北斗さんがどうしたの!?』
星光 「七星さんが、このまま目を覚まさないかもしれない。
   “トリアージ・タッグがレッド”って何?
   CPAってどういうことなの?」
美砂子『誰がそんなことを言ったの』
星光 「ここの病院の看護師さんたちが言ってたって、
   カレンさんが……」
美砂子『星光。落ち着きなさい。
   動揺する気持ちはわかるけど、そうしないと話ができないわ』
星光 「お母さん、私はどうしたらいいの」
美砂子『いい?今、北斗さんは必死で生きる闘いをしてるの!
   貴女の声は、目を閉じている北斗さんに届いているのよ?
   貴女が彼の傍で泣いていたり悲しんでいたら彼は闘えないわ。
   不安なら、私が知ってることは教えてあげるから、
   今の北斗さんの状態を教えてちょうだい』
星光 「うぅ……」
美砂子『星光?』
星光 「……」
美砂子『星光、貴女は私の娘なのよ!
   しっかりなさい!』
星光 「お、お母さん」


取り乱し泣きじゃくる私に、
電話先の母は喝を入れるように強い口調で返した。
その言葉を聞いているうちに、
私の心は少しずつ落ち着きを取り戻す。
私は北斗さんの様子と、廊下で起きた出来事を母に説明した。

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